映画監督の名言集
理解不能を排除するという事がどれだけ国益に反しているのかを理解してもらいたい。どれだけの才能ある人間達が日本を捨てている事か?海外から見たら良くわかる。現在でも才能豊かな人材が日本に沢山いる。しかし、その多くはこの不条理に疲れ果て、言葉が悪いがいじけているのである
紀里谷和明
多くの若者が取り込まれてしまっている。しかしやるしかない。まず作る方の若者に言いたい。「暴走してみないか?」次にお客さん達へ「少しだけ心を広いてもらえないか?」これは芸術の世界だけではない
恐怖の克服がないと世界平和はないのか? しかし恐怖の克服とは生の否定に繋がりはしないのか? 生きる意欲と共に死んでいるという事、武士道に通する境地なのかもね
原発のおかげで信じられないような様々な醜いものが露呈した。人、事象、欲望、何でもいい。しかしその醜さは私たち一人一人の中にも確実に存在している。それが原発という形で露呈しただけなんだと思う。私たちが東電であり、政府であり、マスコミなのだ。私達が変わるしかない。いや、変わればいい
システムや人を変えるのは とても難しい。何故ならみんな自分が正しいと思っているから。自分が正しいと思っている奴らがお互いを変えようとするから争いが起き続ける。しかし自分が自分と折り合いを付けて、自分の中に平和を見つけることだったら、なんとかできるのではないだろうか?
唯一人間には選択肢が用意されている。動物的本能を凌駕してまで選択できる力。これにさえ気づいていれば、そしてその力を行使しつづければどうにかなるはず。理性という自分勝手な生易しいものではない
群れをなした人間を見ればよくわかりますが、集合体の中 には賢明さなどひとかけらもありません。それさえ理解すれば真理は自ずと見えてくるはず。そして人間にだけ与えられた選択肢が生かされる
偽善者と言われるのを死より恐れている人達が多い。その気持ちはわからなくもない。しかしその恐れに屈してしまうと、手も足も出なくなる。そしてもっと良くないのが、屈した自分の不甲斐なさを正当化する為に、他人の偽善叩きにまわってしまう。この図式、ゾンビが増殖するのに似てる
「自主規制」という病。勝手に自分の良心を規制してしまい、進んで奴隷になり、奴隷を増やす。 勝手に監視されていると思い込み、他人を監視する。魂は沈黙し、自由はなくなり、イノベーションは奪われ、閉塞へと突き進む。みなさんの周りを見てください。当てはまりませんか?
自主規制してもいい。そんなにみんな強くないよ。でも、他人にも自主規制を強いるのはやめてくれ。願わくば、出来ない分、やってる奴らを励まし、応援してくれ。偽善という言葉もちょっとだけ横に置いといてくれ。そしたら君に自主規制を強いた世界が、君を励ます世界に変わるかも知れない
君が業界に入るのではなく、業界が君を見つける んだよ。つまり輝いていなければ見つからない
バイクが何故スカッとするのかというと、死ぬかもしれないから。自分の命の行方をコントロールするというのは究極に自由でありえる
誰がピカソになるかなんてわからない
信じていることしかやりたくない
国、社会、親、友人の声ではなく自分の声に耳を傾け、その通りに発言し行動すれば世界は平和になる
どうせ失うものだから何もするなという事ではなく、手に入れるために一生懸命行動すればいい。しかし手に入れてもそれにしがみつくこをしなければ、執着に苦しめられることはない
自由を殺すのは恐怖。恐怖の目的は存続。何のための存続かを見失った時に美が消え失せる
みんなわか っているけど目をそむけている。あなたは何をしますか?
「戦争」最近では「紛争」と人々は軽々しく言うが、その正体は強姦した後の妊婦の腹をナタで裂き、胎児を引きづりだし道端に捨てるという(実際に起こった)行為が象徴するように栄光や正当性のかけらもないもの。その光景はメディアでは流れないが、自分の母、姉妹、友人に置き換えて想像されるべき
テレビや雑誌が言いたくても絶対に言えない真理。「質素は美しい」
いつも言い続けている事は「全て繋がっている」という事。消費の事、原発の事、戦争の事、全ては繋がっている。全ての原因は私たち一人一人。政治家のせいではなく、東電のせいではなく、宇宙人のせいではなく、私たちが引き起こしている事。それに気づけば何か変わるよね
「偽善を討つ」という名の下に撒き散らされる根拠もないネガティブさがこの世界を泥沼に沈めてしまう
欲しいという錯覚を満たすために手に入れた瞬間、欲望は、それを失うのではないか?という恐怖に変わる
「得る」事は誰でもはできませんが、「手放す」事は誰でもできます。今すぐに。それが世界平和と自分の平和の鍵を握っているのです。とってもシンプルでフェアで美しい
人はいつか死ぬ。そして君を笑う奴ら、苦しめる奴らもいつか死ぬ。そして君を知っている人間は誰もいなくなり、この地球ですらいつかなくなってしまう。であれば自分の思う通りに正直に生きてもいいのではないだろうか?
紛争のほとんどは経済的理由から始まっている。私達が石油、水、資源を無駄遣いし、必要以上に欲しがるから、それを得る為に代理戦争を起こし略奪に手を貸している。政治家のせいにする前に自 分自身を鏡で見るべき
性別、国籍、所属、様々な「名前」は安心をもたらすと同時に自由を奪う。この拘束具に自ら収まる人間がどれだけ多いことか。そして自分の子供や周りの人間にもそれを強要する。そして人間そのものの美しさは失われ、腐臭を放つ
崩壊させたいものがあれば名前をつければいい。日本において「中二病」という言葉が「純粋さ」という美を殺したように。「偽善」という言葉が善意を曇らせるように。「バブル」という名前が日本の経済成長を終わらせた。その後の状況に対しての名前がまだついていない
友人達から「放っとけばいい」と言われる。しかし、少なからず影響力を持った人間達が「放っておいた」故に出処もわからない妙な価値観が幅を利かせている。そしてそれを子供が信じてしまい、萎縮して自分の可能性を自ら殺してしまう
本当に作りたいものを作って、やりたい事をやって、好きな人に好きと言って、愛している人に愛してると言わなければならない。当たり前だけどそう思う。その他をやっている時間はないんだよ
僕の年になっても何で青春映画が見ていられるのかっていうと、みんなが通った経験値が基にあるから。根本に見え隠れする想いとか、恋心とか、失意とか、絶望とか、そういうみんなの想いが小説になっているというか
行定勲
暗闇に一筋の灯りを入れることの大切さを常に感じています
僕らクリエイターは常に現状に対して怒りを抱えているんですよ。現状に満足していないという状況のもとで、映画人として成り立っているんです
言葉が違うだけで、顔の色、顔、風景や背景も似ているし、アジアの映画人達とお互いに影響を受けあって、喜びとか悲しみみたいなものを共有できたら、もう少し映画の幅は広がると思う
映画という基本を叩き込まれていない観客たちが、間違ったものを映画だと思っている状況がある
日本はどちらかというと、日本のテーマという風にはならず、アメリカやフランスみたいな、誰にでもわかるような普遍的なテーマ。それはなぜかと言うと、それぞれの国がそれぞれの観客で回っている国なんですよ。ただ、そういうところでは、逃げ道がないと思ったんです。影響された映画を、日本で真似をしたところで観客はいない
行 定勲
アジアの監督たちっていうのは、アジアの問題や自分の国の問題を、映画を通して映し出すことで、「わが国はこういう状況にあるんだ」ということを、背景に見せてくる。映画を見ればその国のことがわかるんですよね
日本人は映画を作るという行為のステータスがものすごく低い
結局自分のモチベーションが一番沸くのは、やっぱり映画人と触れ合っている時なんですよね
日本の映画監督たちはみんな、日本国内に向けて映画を作るということに疲弊してるんですよね
作り手は評価にひるんでしまうものだけど、釜山国際映画祭で観客に見せること、選ばれること、評価されることは正当な感じがするし、映画祭が観客を育てているというのが明確であり、そこが釜山国際映画祭を信用できる点ですね
僕は韓国、台湾の映画人と性が合うっていうか
小説としてはすごくセンセーショナルなことが、そのまま映画として描いてもその人物に花が見えないこともあります
原作小説がある場合、そこで生まれた登場人物に映画としての生き方をさせることが大事なんです
すごく志が低いところから始まりました。低いながらも、映画を見上げている感じでしたね
『影武者』は、とても印象に残ったリアルな怖い映画でした。それで、最後にエンドロールが出てきた時、すごくたくさんの人たちの名前が上がっていて。映画1本に、こんなに多くの人が関わっているのであれば、いつか俺もこのなかの誰かになれるのかもしれないと思ったんです
この世界に入りたいと思ったきっかけは黒澤明監督の『影武者』の撮影現場を見に行ったことでした