紀里谷和明の名言集
私たち一人一人がそれに加担すればする程、風潮というものが生まれる。子供達はその風潮にとても敏感だ。イジメは他人事ではない。私たち一人一人がその片棒を担いでいる。逆を言うとそれだから変えられると思う。私たちが社会を通して繰り返されるイジメの構造から手を引けばいい
紀里谷和明
風潮を変えてみないか?存在するあらゆる中傷と戦ってみないか?ネット上でもスルーするのではなく言い返してみないか?井戸端会議や居酒屋で起こる他人の中傷からも離れてみないか?人の陰口からも離れてみないか?他人の災難を喜ぶ奴らからも離れてみないか?
確かに最初は辛いかも知れない。でも、そういう人達が少しずつ増えて行けばこの風潮は変わる。そう信じている。それこそが子供達の為ではないだろうか?
苦難は親友
人はどうやったら「認められたい」という欲求から開放されるのだろうか? 諸問題の根源はこれのような気がする
名も知られずに死んでよい。という肯定から愛が始まるような気がする
あらゆる生物が、その存在すら知られずに死んで行く。かと言ってそれらの存在は無意味だったのか?とういうと絶対そうではない。では何故認識を求めるのか?
人にはサイクルがあり、物事がうまく行くときと行かない時がある。大体十年周期で変わるような気がする。だからうまく行かなくてもそれはしょうがない。自然の摂理ってやつですよ
昔の人が「苦労は買ってでもしろ」と言うのを聞いて、苦労をすると後でいいことがあるよ。という意味に捉えていたが、実は苦労を愛する事により億劫な事がなくなり前に進めるよ。と捉える事もできると理解するようになった
みんな言うんだよ「俺だってバッターボックスに立てたらヒット打てる」って。しかし実際はそんな簡単な事ではない。そして立たないとわからない
本当に思うんだよ。地球のどこを切り取っても美しい。本当に美しい。でもなんで世界はこんなに醜く、苦しみと暴力に満ちあふれているのか?って。喜びや幸せはその暗黒の切れ間からもれる儚い光のように見える
楽園に人間が降り立ち地獄の建設を始めた
暴力とは他存在の自由を妨げる行為。その暴力に私達は過剰な消費で加担している。過剰消費の根元は虚栄。虚栄は認識されないかもしれないという恐怖。そしてその恐怖により自身の自由も窒息する
虚栄という、つまらない恐怖に苛まれ過剰消費に走った結果、大量の資源とエネルギーが必要となり、搾取、奴隷、公害、原発、戦争、殺される生き物の悲しみが生み出されているのではないでしょうか?
サービス業においては日本の右に出る国はないと思う。ホントに事細かくケアがされている。しかし、時々思うのが客の方もそれに慣れているので、いろんな局面でサービスを要求してくる。映画も音楽も写真もメディアもサービス業を強いられている。確かにサービスも必要だけど、日本のレベルは異常
サービスも政治も教育も、受け取る側の感覚が麻痺して何も返さずに受け取るだけが当たり前と感じ始めた時に人間性の腐食が始まるのだと思う。その結果提供する方の人間性も失われ、狡猾な利益と効率の追求が始まり、結果システムが支配する隷属社会が生まれる
映画は総合芸術というが、実はそれ以上で商業、法務、政治、国際外交、人心掌握、タイムマネージメント、ありとあらゆる要素が凝縮されていて、特にこれからの映画制作には、それら全てへの精通が求められる
紀里谷和 明
写真を始めたのが1994年。何となく写真から離れたのが2004年。そして今、また写真に興味がある。写真を全く違うものとして捉えなければならないのだと思う
みんなが俺に聞いてくる質問の多くはもうすでに答えを知っている質問だと思うんだよ。俺を通して確認してるだけだよね。自分を信じていいと思うよ。迷っても自分に聞いてみな。答えが帰ってくるから
世界中を旅してつくづく思う。日本人は世界の為にとても重要な事が出来ると。ただ、今日本人はいじけちゃってる。根拠もなく怯えて、いじけを伝染させている。そこさえやめてしまえばいいんだよ。今すぐに。誰の許可もいらないよ。顔を上げて真っ直ぐ、道の真ん中歩けばいいんだよ
日本で電車に乗った時に改札の出口で若い駅員の女性が立ち、何度も何度も出てくる乗客に「ありがとうございました」とお辞儀をしていました。乗客はその駅員さんに目をくれる事もなく、その駅員さんも期待している様でもなく
日本人はとっても不器用だと思う。絶望的にCOOLじゃないと思う。だからいい。それでいい。ありのままを受け入れるところに平和がある
誹謗中傷をスルーしてた時代は終わったんだと思うよ。終わらせなきゃいけない。それこそ未来の子供達のために
自分にどこか欠けてい るところがあると思い込み、それを物質で埋めようとする行為は必要ない。ほとんどが欠けていると思い込まされているだけ。欠けている人なんかいない
自分が先頭切って開拓してきたデジタル写真分野。この10年程、世界中の街に溢れる写真群を見て、妙な嫌悪感に襲われていたのは事実。デジタルが、アグレッシブに自由を追い求めるためではなく、不完全さを排除し、コンプレックスを払拭する為の極めて保守的な道具になり下がってしまった悲しさがある
人間だけに「殺さない」とい う選択肢が用意されている
作品を売る側の人達って「売れるように」となんらかの変更を要求してくる。でも、それって売る方の怠慢じゃねえ?って思う。そしてその要求に答えたからと言って売れるわけではない
名言というのは聞いた人達が頷くから名言なのでしょう。と言うことは聞く人たちが既にその答えを心の何処かに持っていないと頷けない。つまり答えはみんな知っていると言うことではないでしょうか?
消費は暴力
様々な消費選択をする上で、たとえそれが容易に買えたとしても「本当に必要なのか?」という問いがあるべきではないでしょうか?それが本当の裕福さなのかもしれませんね
集団は臆病者が好む。厄介なのは臆病者には強いコンプレックスがあり、数という武器によって自らの臆病ゆえに抑え込んだ日頃の妄想を実現しようとする。そしてそこには人間性は既になく、信じられないような残虐性だけが残る
業種を問わず、圧倒的な練習量による圧倒的な技術を持っている人間しかこれからの世界ではやっていけない
美しいものに見極められる必要があるのだろうか?審美眼という言葉自体、第三者の視点を意識した恐怖が含まれている。そんなものは必要ない。君は既に何が美しいか知っている
俺がこの一年取り組んだことは自分の欲望を認めるという事からだったね。それがどんなに世間体としてまずくても正直に自分に認めるということ
「日本人だから」とか「人それぞれ」って言うのやめない? 巧妙な言い訳だよ
「ダサい」とか「ダサくない」とか結局は全くの主観。しかしどれだけの人間が特に子供がそれに惑わされ、萎縮して、苦しめられていることか?
この世界は残虐性と無関心に満ちていると思います。でもみんなどうにかしたいと思っている。その答えは案外シンプルなんじゃないかなと思います
根拠がないから自信って言うんだよ。根拠があったらそれは権威だ。それが君らを苦しめる。その自信ってものは文字通り自分を信じるということ。他人がどう思うかなどどうでもいい。いい加減世間体という言葉を消去して自由になれよ!
この一年、これまでにないくらい自分に集中した。それが必要な一年だった。世界は私達一人一人が作っている
報われるか報われないかなんて神が決める事。たいして重要じゃない。でもとことんやるって楽しいじゃん
本当に作りたいものを作って、やりたい事をやって、好きな人に好きと言って、愛している人に愛してると言わなければならない。当たり前だけどそう思う。その他をやっている時間はないんだよ
時間の中に絶対的なタイムコードのようなものがあるような気がする。それとのシンクが外れた途端、美は消滅し摩擦が起きる。厄介なのは社会的進歩と呼ばれるものはこのタイムコードから独立しようとする焦りと傲慢さであり、絶え間ない摩擦を生み出し続けている
近代日本が勘違いした、この「根拠のない余裕」を演じる行為が諸悪の根源である。特に若者の可能性の芽を摘む犯罪である
事を成す人間は全員その「根拠なき自信」を持っている。「根拠なき余裕」を装うバカども、つまり「根拠なき自信」を笑う者たちに耳を傾ける必要はない
幸せの反対は不安。不安の正体は未来。未来は不確か。どちらにしろ不確かで根拠がないのであれば、自信を持ってもいい。それが希望ではないか?
産業革命で機械が人力にとって変わったように、もう男の暴力性やボス猿思考は必要なく、男力から女力にシフトする時代に来てるのではないか
人はいつか死ぬ。そして君を笑う奴ら、苦しめる奴らもいつか死ぬ。そして君を知っている人間は誰もいなくなり、この地球ですらいつかなくなってしまう。であれば自分の思う通りに正直に生きてもいいのではないだろうか?
この世界は、心の声と、それを疑う恐怖。この二つでしか ないように思える。充足感とはどれだけ前者に忠実なのかではないだろうか
「根性」という言葉ってあまり好きじゃないが、この言葉が疎んじられる様になってから日本の経済衰退が始まった様に思う
虚栄という貧しさから脱却しよう。人も街も飾れば飾る程、貧乏臭く見える
映画なんて「好き」「嫌い」でいいんじゃない?評論するんだったら、どっかで聞いたような事書くんじゃなくて自分の言葉で語って欲しい
日本の衰退と混乱はリングに上がるべき奴らが負けて傷つくのを恐れて、リングサイドで評論する方にまわっちゃったからからじゃないの?気がついたら誰もリングにいなくて評論家ばかりで会場がいっぱいみたいな
日本では「出る杭は打たれる」ということわざがあるように、異端を排除しようとする風潮がとても強い。しかし、そこからはイノベーションは生まれない。事実ガラパゴスと呼ばれる状況が出来上がり、経済は衰退の一途を辿り、人々の暮らしは苦しくなっている
理解不能を排除するという事がどれだけ国益に反しているのかを理解してもらいたい。どれだけの才能ある人間達が日本を捨てている事か?海外から見たら良くわかる。現在でも才能豊かな人材が日本に沢山いる。しかし、その多くはこの不条理に疲れ果て、言葉が悪いがいじけているのである
多くの若者が取り込まれてしまっている。しかしやるしかない。まず作る方の若者に言いたい。「暴走してみないか?」次にお客さん達へ「少しだけ心を広いてもらえないか?」これは芸術の世界だけではない
恐怖の克服がないと世界平和はないのか? しかし恐怖の克服とは生の否定に繋がりはしないのか? 生きる意欲と共に死んでいるという事、武士道に通する境地なのかもね
原発のおかげで信じられないような様々な醜いものが露呈した。人、事象、欲望、何でもいい。しかしその醜さは私たち一人一人の中にも確実に存在している。それが原発という形で露呈しただけなんだと思う。私たちが東電であり、政府であり、マスコミなのだ。私達が変わるしかない。いや、変わればいい
システムや人を変えるのはとても難しい。何故ならみんな自分が正しいと思っているから。自分が正しいと思っている奴らがお互いを変えようとするから争いが起き続ける。しかし自分が自分と折り合いを付けて、自分の中に平和を見つけることだったら、なんとかできるのではないだろうか?
唯一人間には選択肢が用意されている。動物的本能を凌駕してまで選択できる力。これにさえ気づいていれば、そしてその力を行使しつづければどうにかなるはず。理性という自分勝手な生易しいものではない
群れをなした人間を見ればよくわかりますが、集合体の中には賢明さなどひとかけらもありません。それさえ理解すれば真理は自ずと見えてくるはず。そして人間にだけ与えられた選択肢が生かされる
偽善者と言われるのを死より恐れている人達が多い。その気持ちはわからなくもない。しかしその恐れに屈してしまうと、手も足も出なくなる。そしてもっと良くないのが、屈した自分の不甲斐なさを正当化する為に、他人の偽善叩きにまわってしまう。この図式、ゾンビが増殖するのに似てる
「自主規制」という病。勝手に自分の良心を規制してしまい、進んで奴隷になり、奴隷を増やす。勝手に監視されていると思い込み、他人を監視する。魂は沈黙し、自由はなくなり、イノベーションは奪われ、閉塞へと突き進む。みなさんの周りを見てください。当てはまりませんか?
自主規制してもいい。そんなにみんな強くないよ。でも、他人にも自主規制を強いるのはやめてくれ。願わくば、出来ない分、やってる奴らを励まし、応援してくれ。偽善という言葉もちょっとだけ横に置いといてくれ。そしたら君に自主規制を強いた世界が、君を励ます世界に変わるかも知れない
君が業界に入るのではなく、業界が君を見つけるんだよ。つまり輝いていなければ見つからない
バイクが何故スカッとするのかというと、死ぬかもしれないから。自分の命の行方をコントロールするというのは究極に自由でありえる
誰がピカソになるかなんてわからない
信じていることしかやりたくない
国、社会、親、友人の声ではなく自分の声に耳を傾け、その通りに発言し行動すれば世界は平和になる
どうせ失うものだから何もするなと いう事ではなく、手に入れるために一生懸命行動すればいい。しかし手に入れてもそれにしがみつくこをしなければ、執着に苦しめられることはない
自由を殺すのは恐怖。恐怖の目的は存続。何のための存続かを見失った時に美が消え失せる
みんなわかっているけど目をそむけている。あなたは何をしますか?
「戦争」最近では「紛争」と人々は軽々しく言うが、その正体は強姦した後の妊婦の腹をナタで裂き、胎児を引きづりだし道端に捨てるという(実際に起こった)行為が象徴するように栄光や正当性のかけらもないもの。その光景はメディアでは流れないが、自分の母、姉妹、友人に置き換えて想像されるべき
テレビや雑誌が言いたくても絶対に言えない真理。「質素は美しい」
いつも言い続けている事は「全て繋がっている」という事。消費の事、原発の事、戦争の事、全ては繋がっている。全ての原因は私たち一人一人。政治家のせいではなく、東電のせいではなく、宇宙人のせいではなく、私たちが引き起こしている事。それに気づけば何か変わるよね
「偽善を討つ」という名の下に撒き散らされる根拠もないネガティブさがこの世界を泥沼に沈めてしまう
欲しいという錯覚を満たすために手に入れた瞬間、欲望は、それを失うのではないか?という恐怖に変わる
「得る」事は誰でもはできませんが、「手放す」事は誰でもできます。今すぐに。それが世界平和と自分の平和の鍵を握っているのです。とってもシンプルでフェアで美しい
紛争のほとんどは経済的理由から始まっている。私達が石油、水、資源を無駄遣いし、必要以上に欲しがるから、それを得る為に代理戦争を起こし略奪に手を貸している。政治家のせいにする前に自分自身を鏡で見るべき
性別、国籍、所属、様々な「名前」は安心をもたらすと同時に自由を奪う。この拘束具に自ら収まる人間がどれだけ多いことか。そして自分の子供や周りの人間にもそれを強要する。そして人間そのものの美しさは失われ、腐臭を放つ
崩壊させたいものがあれば名前をつければいい。日本において「中二病」という言葉が「純粋さ」という美を殺したように。「偽善」という言葉が善意を曇らせるように。「バブル」という名前が日本の経済成長を終わらせた。その後の状況に対しての名前がまだついていない
友人達から「放っとけばいい」と言われる。しかし、少なからず影響力を持った人間達が「放っておいた」故に出処もわからない妙な価値観が幅を利かせている。そしてそれを子供が信じてしまい、萎縮して自分の可能性を自ら殺してしまう
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