演出部へ移り、助監督となりました。この年から新東宝をやめる1957年までの7年間が修業の時期でした
瀬川昌治
この業界に入ったとき「たくさん映画を観ろ」と言われたので、面白いもの、つまらないもの、いろいろ含めて年間で360本以上観る生活を続けました。その結果、三年ほどたったあたりから、企画を思いつくようになったのです。きっと頭の中のデータ量が増えて、検索エンジンが機能するようになったのでしょう
鈴木おさむ
たくさんの人間に借金を頼まれました。そしてわかったのは、親友はどんなに困っても金を借りないということでした
島田紳助
親孝行をする子が増えましたね。10年前の印象と違います。ひと頃、親子の関係が悪かったと思うのですが、今はいいですね
橋田壽賀子
大阪万博の翌年、つまりメタボリズムの時代が終わった後でした。明るい未来の描けない、夢のない時代に建築をつくらなくてはならない、というところから建築家としての活動が始まりました
伊東豊雄
自分の娘よりも若い藍ちゃんと一緒にプレーするんだもの、こんなに楽しいことはないよ。ゴルフは年齢問わず一緒に戦えるゲームなんだと改めて思った。来年から藍ちゃんは、米女子ツアーで戦うわけだけど、これからがほんとうの意味で自分のゴルフを磨いていく時期になる。まあ、23歳ぐらいまでにそれが作り出せれば最高じゃないかな
青木功
源平の世界と登場人物を織り込んだ、通称「餅づくし」の唄の場面ですね。大変でしたが、こうした芸は狂言師にとって専売特許のようなもので、「自分がちゃんとできないでどうする?」と思いながら演じました。それに次第にノリに乗ってしまい、軽くトランス状態になりましたし(笑)
野村萬斎
女性だけでヒマラヤに行こうと、女子登攀クラブを結成したのが1969年でした。当時は、組織に属していないと海外の山に登る許可が取れなかったからです。1970年にネパール・ヒマラヤが解禁になることが分かったので、女子登攀クラブとして、まず1970年に7000m級の山、その次に8000m級の山を目標としたわけです
田部井淳子
小さな挫折や失敗を気にせず、「今日はこれだけやれた」という達成感を積み上げていく。無理しない範囲で、できることを積み重ねていけば、やがて無理がきくようになります。私は70歳でエベレストの頂に立つという大きな目標を掲げながら、日々の生活では階段を一段一段上ることに意義や喜びを見出してきました
三浦雄一郎
いろいろあったけど、一番きつかったのは、トルコで前立腺がんがわかったとき。でも、 俺はやっぱり芸人なんかな。もし死んだとしても、これは伝説になるでって思った
間寛平
経験から言えば、いいことしか言われない時期は「まだまだ」なんです。悪いことを言われて初めて一流に近づく。それを越えてこそ一流じゃないかな
三浦知良
私は物心ついた時から職人の娘でした。盆暮れしか休みが無いのが当然でした から、人間は働くものだと思って育ちました。これは無言のしつけだったのでしょう
瀬戸内寂聴
海外に一人で行かされると、禅問答をしないといけません。私も駐在中は本社の方針が伝わらないまま、たぶん本社の方針はこうだろうと自分で立てた仮説をもとに仕事を進めていました。何をすべきか、ソニーがどこを向いているのかを自分で考えざるを得なかったのです
出井伸之
僕は社員さんに伝えるための、自分の言葉を探し始めました。しかし、それは決して簡単な作業ではありませんでした。最初の書籍をつくる時、ぼくは自分がいかに中身の薄っぺらな人間かを思い知らされることになりました
河原成美
うちの師匠はいち早く独立独歩、孤高の道を歩いてた。人一倍先見の明があった
立川談春
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