松本零士の名言集
目の前には時間と宝物がある
松本零士
泣いたことのない人など一人もいないはず
人はみんな何かを成し遂げる為に生まれてくる
自分は何の為に生まれてきたのか、それは今分からなくてもいい。必ず分かる時がくる
どんなに大きな夢でも恥ずかしがることはない
年を取れば取るほど夢は縮んでいく
あなたの体の中には、ものすごい数の先祖代々の思いと夢が詰まっている
みんな生涯に一度、自分はどうするかという瞬間が来てるはずなんですよ。その瞬間に自らの意思で旅立つかどうか、それで運命が変わる。それぞれの旗のもとに、あなたの夢を果たしてほしい
人は本来、生きるために生まれてくる。死ぬために生まれてくる命はひとつもない。ハーロックは最後まで歯を食いしばって生き抜いていく。何と言われようと自らの道を貫く。ハーロックは永遠に変わらない。決して大げさなことではなく、そういう思いを描きたかった。だから、ハーロックは自分自身を力づける作品でもあるんです
ドクロマークは『骨となっても私は戦うぞ』という意志の表明。人を威嚇したり、驚かすためのものじゃない。誰が使おうと自由な旗印で、世界中共通して何の敵意もない印
お互い誠心誠意打算のない友情が築きあげれれば、それは自分という木を支えてくれている巨大な根っこになります。これが最も人生における大事な物だと、今でもかたくなに信じています
人は生きるために産まれてきた物です。無意味に生まれてきた人はいません
私は地球最後の日、我々の子孫が「今、私たちのふるさとが消えていきます」と言う 実況放送を見ながら、涙する子孫が生き残っているのかそれが心配。願わくば、元気に生き延びていて、地球最後の日に別世界で涙を流してくれる子孫がいるように。 だから、地球上で争っている場合ではない。どこの国の人とも仲良く、お互いに敬意を払いながら、穏やかに楽しく暮らしていきたい。そのために、この仕事をしているんだという断固たる想いがあるわけです
自分自身を大切に、 それから友達や世界中の人々を大切に思いながら元気に頑張ってください。そして未来は若者であるあなた方の胸の中に、既に実在しているんです。若者の夢とは未来そのものです
食べることが体力を養う、体力が気力を支える、気力が夢を支える
若者の日々はそれ自体がユートピア、アルカディアである
世界中の読者あるいは、同年代にも伝えたいのは、私は世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい。そのためにも、思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない。お互いに敬意を払いながら楽しく仕事を続けていきたいし、またそう言う物を描きたい
漫画の世界だけが、唯一、全くお互いに確執が無く、世界中を共に駆けめぐることの出来る ジャンル。だから、いつまでも大事にしたい。海外の少年少女達が読んだ感想を言われるだけで、漫画家で良かったと生き甲斐をかんじますね
戦後落城の坩堝(るつぼ)の中で過ごした日々は後の創作者になる勉強になりました
(「ヤマト」で訴えたかったテーマはという質問への発言)地球を救うために、生きるために飛ぶ-です。生存のために飛ぶのであって、死ぬために飛ぶんじゃない。胸の中には、戦場で倒れていった地球上のすべての人たちへの思いがあるわけです。いつの日か殺し合いのない世界に。そんな思いを込めました
人類皆兄弟。ケンカすることもあるけれど、長い歴史で見たら同じ地球人
アニメの制作に参加することになったときには、「よりによって戦艦大和か」というのが正直な思いでした。僕は飛行機マニア、戦艦マニアだったんですが、ヤマトは扱いにくいテーマなんです
ヤマトの沖田十三艦長は顔もセリフも父がモデルです。たとえば、最初の方で出てくる「きょうの屈辱に耐えて明日のために生きろ。死ぬな古代」というセリフ。そういった意味の言葉はいやというほど聞きました
海賊が旗を掲げていると言うのは、人を威嚇する為じゃなくて、孤独でしょ? どこで倒れても悔いはない、"俺の旗のもと" それと、"骨となっても自分は戦う" 生涯自分の信念を貫くぞ!という意味が強烈にこのドクロマークにはあるわけです
自らの志で生きろ、そのかわり後悔はするな。後悔をするなら最初からやるなと(笑)。これが一番大事なところです。ずっと一貫して同じです。これからも変わりません
あろうがなかろうが、失敗しようが成功しようが、自分の責任。人のせいにはできない。志というのはそういうものですよね。だから人の志で動いてはいけません。自分の志、信念で動けと。そうでないと、あいつのせいでこうなったという言い訳になる。言い訳はしたくない。\"俺の旗のもとに、俺は自由に生きる\" ということです
やっぱり、友人というものがいかに大事か。人は生涯孤独では生きられません。親友がいて、ともに助け合い、それで成り立つわけです。ひとりぼっちではダメだよと。私にも親友がいます。もうこの世を去りましたけど、それでも生涯を共にした親友というのは、懐かしくかつ力強いものですよ
宇宙は将来人類が自由に駆け回る広大な新世界だと思ったものですから。そこにはあらゆる目的の人物がいていい。自由に生きるハーロックも、その一人とし存在しているわけです。弱いものを傷つけることは許さない、という断固たる思いを持ち、私利私欲のために飛んでいるのではない。志を全うしようとする人を助ける海賊、義賊なんです
戦後の混乱期に子ども時代を過ごした私たちは、海や山で自由に遊び回り、思い切りけんかもできた最後の世代といえるかもしれません。今の子どもは規制され過ぎて、不満のはけ口が陰湿ないじめになっている。子どもをもっと自由にさせて、一線を越えそうな時だけ全力で止める。そうした大人たちの見守りの姿勢が、何より必要だと思います
昔は弱い者いじめは恥だった。そんなことをしたらバカにされた。喧嘩はしょっちゅうでしたが、引きずらない。教壇の上でガキ大将と取っ組み合いの喧嘩をした時、彼の鼻血が私の服についたことがあります。彼はすぐに『ごめん』と謝り、自分の服で血をふき取ってくれました。殴り合いで仲良くなることも多かったのです
いつの時代も、若者は無限の可能性を持っています。他人に押しつけられたり、簡単にかなったりする夢ではなく、もっと大きな、夢を持って欲しい。失敗してもあきらめないこと。夢をじっくりかなえるために時間は流れているのですから
テロリストと間違われたことさえあります。ヒゲを生やして、怪しげな恰好をしてるもんで、ペルーとかインドとかアフリカ、オランダ でも御用になりました。ところがマンガ家、カートゥニストだと答えると、がらりと待遇が変わりましてね。撮影禁止だけど、あなたは撮っていいよとか、博物館のバックヤードまで全部、見せてくれました。そうするとマンガというのは世界共通で、心の広い穏やかな世界だと言うのが、お互いによくわかるわけですよね
私は個人的には世界中ありとあらゆるところをうろつき回りましたんで、あと行ってないのは、南北両極くらいのものです
アフリカの大地に立って、レオパードロックという名の小高い丘の上から、彼方にキリマンジャロを臨んで。全天周ですね、空と大地が接しているのを見て、悟りを開いたんです。オレが生まれる前から、これはここにあった。オレが死んだ後も、これはここにあると。視聴率が何だ。人気がどうした。そんな細かいことはもう、どうでもいいとね
南北戦争の時の、アメリカの重騎兵隊が持っていたコルトドラグーンという銃が、コスモドラグーンという宇宙銃の元になっていたり、実物を参考にマンガを描いている
銃器についてですが、私は歴史にまつわるいろんなものが好きで、自分自身も銃器のコレクション、西部劇時代や南北戦争の頃のクラシックな拳銃やライフルとか、ウインチェスター銃、もっと古い時代の火縄銃、ロシアのパーカッション式まで、世界中あらゆる国の、古い銃ならひとしきり持っている
『銀河鉄道物語』というのも、枝葉としてはありますが、どこまで行っても根幹は、あくまでも999です。999とは未完成、青春という意味です。1000になると完成になる。1000年女王というのはメーテルのお母さんですが、1000は完成で、大人を意味します
作品の中の「言葉(台詞)」、ストーリーは、より真実に近くなくてはいけないと考えている。脚本を書くにあたり、より歴史を理解し、戦闘シーンであればよりリアルな表現にするために「命令伝達様式」「戦闘ルール」を理解した台詞でなくてはいけない
漫画という言葉の「漫」という字には、別に面白いという意味は全くないんですよ。さんずいに又、日のごとき、横倒しの目で、瑞々しく若々しい瞳という意味があって、若々しい元気な画で描くという意味なんですよ
日本の漫画の歴史というのは古いんですよ。樺島勝一、田河水泡、横山隆一、横井福次郎、福島鉄次。こういう人たちが土台を作ってくれたんです。それから戦後の第一期ブームを作ったのが手塚治虫さん
すべての責任は自分にあって、第三者のせいにはできないから、その自分の目的に向かって進むその瞬間を自分で判断して、それで旅立てということです
我々の時代は、雑誌の変遷 ー 月刊誌から少年誌、少女誌に分かれ、それから今度は週刊誌に分かれ、週刊誌から青年誌という漫画ジャンルに分かれ、さらにアニメーションに分かれていったわけです。アニメーションは、映画館用の劇場用アニメとテレビ用のアニメのふたつの道に分かれていった。私は、それを全部体験してきています
人によっていろいろあっていいんですよ、何を考えようとね。人間みな自由。 自分の生涯は自分が作る
平面の写真資料と、自分の両目で見た実景は違います。自分とのスケール感があるでしょ? 見る角度を変えて、いろいろ立体的に見ていけば自由に表現できるわけです。だから、自分の体験が必要なんですよ
まだ「999」です。「1000」になってないんです。私はこれまで出てきた全部の登場人物の物語を最終的にはひとつになるように、若い時から念頭に置いて描いています。ただ、これを描いてしまうとエンディング、ですよね。カーテンコールになっちゃう。まだイヤだから、合体させません
作品、作家としての全体の能力を今試されてる最中です。これからですよ。まだ60年でへたばりたくないから。これからもうひとつやって、終わりにしたいんです。21世紀も進んでいけば、もっとおもしろいものができるだろうと思いますよ
今は猛烈な変遷期なんですよ。表現形態も、発表の場も、技術的にも。平面から立体に至るまで、歴史上、最大の変遷期です。だから、これを見極める必要がありますね。どういう媒体で作品を発表できる世界が生じるか
基本的に絵というものは、人間が手で描くもの。デジタルであろうと何であろうと、自分の目で見ながら自分の手で描くのがやっぱり絵なんです。第三者に任せると、それは自分の絵ではない。情感、心が違いますからね。だから自分でやらなきゃいけない。体験と同じです
私は世界中を自分の目で見てきました
私はね、あんなに宇宙をいっぱい描いて、地球もいっぱい描いてるけど、現実には地球を見たことがないんですよね。地球を実際に見ることができたら、もっと絵の印象が変わると思う
絵を描く場合に平面の参考資料は必要だけれど、それだけではリアルなものは描けない。私は絵を見れば、その作家が裏側も知って描いているかどうかわかるんです
創作のためには、幼少の頃からの自分の描く能力を培う時間が必要です
ガキの頃からの全部の体験というのが大いにものを言うから、自分の心の中に取り込む体験をなるべく多くしておくことが大事なんです