平面の写真資料と、自分の両目で見た実景は違います。自分とのスケール感があるでしょ? 見る角度を変えて、いろいろ立体的に見ていけば自由に表現できるわけです。だから、自分の体験が必要なんですよ
松本零士
でも、シンクロをやることを通して何かをつかんでほしい。人間として成長してほしいんです。できないことができるようになる、その達成感を子供たちに味わってほしいんですよ
井村雅代
一流選手がプレッシャーに強いかというと、そうでもないですよ。結局、どんな人でも自分の大きな願いが叶いそうになると、ひるむものなんです。だから、本番は普段の実力からたいてい目減りする。でも、それは仕方ないですよ
ぼくは今、自分が詩とか文学、あるいは絵や彫刻など、ある意味で自分だけの孤独な作業で自分を表現しているのならば信じられると思うんです。でも現実に、今皆さんの前で踊ったり、芝居をしたりしているなんて信じられない。実感がない。こんなことを言うと、信じてくれないかもしれないけれど、本当なんです
坂東玉三郎
僕は限界に挑戦することで「人類のフロントランナーでありたい」と思い続けてきました。今もその意識は変わりません。しかし、その根っこにあるのは、誰もやったことのないことをやってみたい、周囲を驚かせたいという、純粋に僕自身が楽しんでいる気持ちです
三浦雄一郎
映画館に行って、会社や学校みたいだったら皆嫌ですよ。そういうことから、いい意味で解放されたいわけじゃないですか。だから、皆映画館に行くわけですよね。それがひどくなるとよくないと思うけど、その“いい程度”をどうやって作っていくか、それが今後の映画館のテーマじゃないかって気がします
鈴木敏夫
(建築は)「自分はこれがしたいんだ」と思う人間の数だけ、個別の解があるのです。答えがないのは人生も同じでしょう。判断力、決断力、実行力といった持てるすべての「力」を発揮して、自分の責任で精いっぱい考えて、道を探していくしかない。人間の個性とは、そんな厳しく不安な状況の中でこそ現れてくるものです
安藤忠雄
私はコンクリートにこだわり続けてきました。ひとつの素材を突き詰めていくことで、自分の想像力の限界に挑戦し続けられるからです
翻訳って究極の精読なんですよ。一字一句をゆるがせにできない中で熟読するので、すごく小説の勉強になる。作家や文壇との付き合いもほとんどない僕にとっては、翻訳が唯一の文章修業みたいなものでした。わからないところがあれば、一日中、たった一行の文章とにらめっこして考え込むのは、小説を書くうえでもいい頭の運動になるんです
村上春樹
これはどんな分野でもそうだと思いますけど、これはすごい、と自分が本当に100%認められる実例がちゃんと存在していると思える ことは素晴らしいことですよ。それはちょうどギャツビーにとっての沖合の緑色の灯火のようなものですね。僕にとっては、それが新訳を手掛けたこれらの小説なんです
傲慢に聞こえるかもしれないけれど、いま、それなりの年齢になってみて、学ぶべきものはだいたい学んだなという印象があるんです。あとはもう、自分の手で自分の方法を拓いていくしかないんですよ。道のないところに何とか道をつくっていくしかない
ぼくはね、広告というのは、社会に向かって、〝僕たちはこういうことを考えているんですよ〟とわれわれの考 え方を、社会に訴えてゆく。また、社会が何を求めているか、それを探し、それに応えてゆく。そんなものだと思うんですよ。ぼくはね、PRとは、社会への語り掛けだと思うんです。〝われわれは、こんなふうに、社会に貢献したいと思っているのです〟そういうふうにね
佐治敬三
奇跡って、当事者は気づかないものなんですよ。いつもと変わらない日常があるだけで。ということは、いつもと変わらない今日も、本当は目の前で奇跡が起きているかもしれませんね
秋元康
(宗教とは何ですか?)我々は無限の社会で苦しいと言っている。自由にならな いとか苦しいというところに何か限られたものを感じておって、限られたものを感じるということが正しい無限を感じることに決まっておるんですね。そうでなければ無限、有限というものが苦しいと感じることもなけりゃ不満足だと考える理屈はないんですね。有限というものの中におって、そういう感情を起こすのは、すなわち裏に無限があるからだと。その無限に対する関心が欠けておると、その関心を持つのが宗教だと
鈴木大拙
一応やってみるんですよ。痛い目を見て完成度も低くていいんですよ。完成度が低いんだから、ここに色々な枝葉をつけて完成度をごまかして持ちあげられないかなっていう工夫ですよね。そうすると工夫が面白くなったら、工夫の方を光らせればいいんですもん
所ジョージ
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