村上春樹の名言集
人々は実際には不自由が好きなんだ
村上春樹
死んだ人はずっと死んだまんまだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの
秘密というのはそれを知っている人間が少ないからこそ秘密なのだ
僕は現実でもある日誰かが消えてもおかしくないと思って生きている。人というのは日常的に失われていくものだととらえているんです。猫を飼っているとわかるけど、動物というのはいついなくなっちゃうかわからない。そういうことって決して特殊なことではない
どんな言語で説明するのも難し過ぎるというものごとが、私達の人生に はあります
あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ
日本の文壇システムからは、ほとんど黙殺されたような状態になっていました。多くの読者は僕の小説を熱心に受け入れて、本を出せばそれを買ってくれました。でも文芸世界では僕はほとんど評価されなかったし、好かれもしなかった。攻撃を受けることも頻繁にありました
想像というのは鳥のように自由で、海のように広いものだ。誰にもそれをとめることはできない
誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです
本当に深く心が傷ついたときには、言葉なんて出てこないものだよ
おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ
汚れてもいい古い靴がひとつあると、何かのときにけっこう便利なものですよ
本当の自分というものがなくては、人はそもそも生きていくことはできないんだよ。それは地面と同じなんだ。地面がなかったら、そこに何かを作るということはできないんだよ
百のうち九十までは、自分では実際に体験したことのないことです。僕自身の実際の人生は、かなり退屈で、物静かなものです。しかし、どのようなささやかな、日常的なことからでも、大きな、深いドラマを引き出していくのは、作家の仕事であると思います
世の中には絶対ってことはないんだから
自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ
しかし歩かない。僕はなにも歩くためにこのレースに参加したんじゃない。走るために参加したのだ。そのために――そのためだけに飛行機に乗ってわざわざ日本の北端にまでやってきたのだ。どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけには行かない。それがルールだ
科学とは科学そのもののために存在するべきだと私は確信しておるのです
本当に本を大事にする人は、携帯電話で読める時代になったとしても、ちゃんと書物を買って読み続けていると思う。世間の大多数の人々は、そのときの一番便利なメディアに流れていくかもしれないけれど、どんな時代にもそうじゃない人が確実にいます
『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな
文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかない
親切さと心とはまた別のものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ
洋服や装身具というのは、その人の内側にあるものを隠すものではなく、むしろ引き立たせるためのものだと考えています
誰にも進化を選り好みすることはできん。それは洪水とか雪崩とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきてからでは抗いようがない
経験そのものがひとつの意味です。その経験の連鎖を通して主人公は変化します。それがいちばん重要なことです。彼が見つけたものにではなく、彼が見つけなったものに でもなく、彼がくぐり抜けてきた変化にこそ意味があるのです
休暇と友だちは、人生においてもっとも素晴らしい二つのものだ
たぶんいろんな感情をもっともっと外に出した方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる
人間は誰でも何かひとつくらいは一流になれる素質があるの。それをうまく引き出すことができないだけの話。引き出し方のわからない人間が寄ってたかってそれをつぶしてしまうから、多くの人々は一流になれないのよ。そしてそのまま擦り減ってしまうの
人生は考え抜くものじゃなく生きるものなのよ
宗教団体は接近するのがもっともむずかしい相手のひとつです
僕は性別からいえば間違いなく女だけど、乳房もほとんど大きくならないし、生理だって一度もない。でもおちんちんもないし、睾丸もないし、髭も生えない。さっぱりしているといえば、とてもさっぱりしている。それがどういう感じのものか、たぶん君には理解できないだろうけど
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ
僕はずっと小説を書いているけれど、ものを書く上でも、そういう感情の記憶ってすごく大事だ。たとえ年をとっても、そういうみずみずしい原風景を心の中に残している人は、体内の暖炉に火を保っているのと同じで、それほど寒々しくは老け込まないものだ
現在、小説はむずかしい時期を迎えているとよく言われます。人は小説を読まなくなったということが世間の通説になっています。しかし僕はそのようには思いません。我々にできることは、我々しかできないことは、まだまわりにたくさんあるはずです。僕はそう信じています
日常に飲み込まれて、どれが傷なのかわからなくなっちゃうんだ。でもそれはそこにある。傷というのはそういうものなんだ。これといって取り出して見せることのできるものじゃないし、見せることのできるものは、そんなの大した傷じゃない
優れた音楽家は意識を音に置きかえることができるし、画家は色や形に置きかえる。そして小説家はストーリーに置きかえます
誰かのことを知ろうと長い時間をかけて真剣に努力を重ねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか
僕はむしろ文学というものを、他のものでは代替不可能な、とくべつなメディア・ツールとして、積極的に使って攻めていきたいというふうに考えるんです。だって文学っていうのは最古のメディアのひとつですからね
懲りるのは良いことだ。人は懲りると用心深くなる。用心深くなると怪我をしなくなる。良い樵というのは体にひとつだけ傷を持っているもんさ。それ以上でもなく、それ以下でもない。ひとつだけさ