スポーツ界の名言集
仲間のクリアは勇気を与え、仲間のリタイアは力を与える
山田勝己
出場する限りはクリアできるよう、メンタルとフィジカルの準備をしておきたい
年齢を言い訳にしたら、(SASUKEに)出場する資格はない
野球部での鍛錬がSASUKEへの挑戦を続ける原動力になった
高校時代の悔しい思い出があったから勝負への執着心が生まれた
母の日に心からありがとう。あなたの子供で良かった。今は白血病と戦いながら頑張ってます
スケートをもっと気楽に楽しみ、みんなに親しみを持ってもらいたい。スケートは独特で、エリートしかできない印象がある。そうではないと思う。本当に楽しんで、本当に好きにならないと、上手にならないし、やっていても毎日同じことの繰り返しになる
安藤美姫
コーチになりたい
ベストを尽くせば自分としては満足だけど、願いとしてはやっぱりここまで自分の決断を受け入れてサポートしてくれている方が本当に多いので、その人たちの夢を一緒にというか、その人たちの夢をかなえられたらいい
辛かったのは、(幼いころに)父が事故で亡くなってしまったこと
人生全体でいうと、幸せだと思えたのはスケートに出会えたことで、自分の人生の中ですごく大きな意味があった
辛かったのは、複雑だけど(世界で)1位になったこと。気持ちの持っていき方が難しかった
一番楽しいのはリンクの上に立てること
春や夏は夜泣きもするし、夏は2、3時間おきに毎日起きて一番大変だった。娘を預けた方が体は楽だったろうし、自分の疲れがとれるのは早いと思うけど、そういうのは自分が許せなくて。自分の娘だし、なるべくそばにいたかったし、『スケートだけ』と言われるのがすごく悔しかったというか、絶対に嫌だった
出産という答 えを出して、それでもスケートをやりたいという挑戦を、理解して支えてくれるトレーナーの方とか、もちろんコーチたち、あとは応援してくれている方たちへの感謝の気持ちが支えになっている
諦めないことはすごく大切なことだと伝えたい
(復帰してから一番の支えになったものは)やっぱり娘ですかね
スケートを通して何かに出会えたり、ボランティアをするチャンスをいただいて、石巻の子どもたちに出会えたりもしたんです。小さいことかもしれないけれど、それができるのは、私にスケートがあったから
ぶつかり合うのは、大変です。リスキーでもある。でもたとえばアイスショーを作る、なんて過程でも、みんなでぶつかるのも楽しいし、話をすれば最後はきっといいものができると思う
結婚して、子どもを産んで、家庭をしっかり守っている女性は素晴らしいと思う
あなたはあなたの人生をまず見て幸せになって下さい
HateとLaveって実は同じ。心が現すもの。イコールあなたにはまだ心があるって事
私の人生は私のもの。あなたのものではありませんから
空って世界中どこでも、一つにつながっているんですよね。見上げればどこかにつながっているって、いいなあ・・・
(4回転ジャンプに成功したとき)空中で、降りられる気がしたんです
未来のことは考えません。毎年、毎日、違うだけ。それに対応して、自分を出していきたい
やらないと、やらないと、ってずっと思っていた。人に言われるから、やらないとって。生きていることを忘れているような……
私の場合、小さな頃に父とスケートを交換したというか……、父を失った代わりにスケートを手に入れた、という想いがあります。だから私の笑顔は、スケートからもらったもの
死んでもいいという気持ちで演技してます
やらされているんじゃなくて自分でやりたいからやっている
辛いことがあってもくじけずに頑張ろう。ではなく、くじけても諦めないで
伸びしろが1つでも見つかれば、それはまだまだ成長できる証
私はリンクの上にいるだけで幸せ
フィギュアスケートは競技であると同時に、芸術性も要求されます。点数だけを計算して勝利をもぎとりたい人もいるだろうけれど、私はやはり自分の満足する演技をすることを大切にしています
アメリカにいると、自分の意見を言わなければ生活できません。いつでもどこでも「あなたはどう思う?」と聞かれますから
自分らしくいる為には、自分を隠してはいけないんだとよくわかりました
プロレスラーになった以上、自分でストップするのは無理
高山善廣
ファンの前で「プロレスを辞めます」って、自分の足でリングを下りるのを最後に見てもらいたい
早いね。あの(事故)直後は「何で生きてい るんだろ」って思っちゃった
俺たちプロレスラーは馬鹿だから。馬鹿だけど地獄のような経験をしてきた。人間の持つ強さっていうものがあるはず
子どもの頃に病弱だった俺が、まさかここまで来れるとは…
俺はどの場所でも、それなりのインパクトを残してきた
(PRIDEのドン・フライ戦)試合は、ひと言で言えば、ノーガードのぶん殴り合い。お互い相手の首を左腕で押さえて、右腕でぶん殴る。あのシーンが拍手喝采を浴びたわけだが、確かにあとでビデオを見て、自分でも笑ってしまった。なんじゃこりゃ、すげえことやってるじゃん、といった感じで大笑いした
彼ら(三沢光晴・小橋健太)がいわゆる王道であったからこそ、俺はそこじゃなくて違う道だな、と思うことができた
三沢さんっていうのは常にファンを引っ張ってたような気がする
昨日、天龍サンと電話で話をした・・・実娘の嶋田代表からマスコミ発表前に連絡を頂いた時には遂にその時(天龍源一郎選手の現役引退)が来たかと思った
俺は三沢さんと闘うことで、「これがプロレスなんだ」って思った
俺は自分がやってるUインターのプロ レスに結構自信を持ってたんだけど、プロレスよく知らない友達に『おまえ、何チャンネルに映ってるの? 4チャン? 10チャン?』って言われて、『いや、テレビには映ってない』って言うと、『なんだ、そんなとこか』って言われて、それが凄く悔しかった
この人(三沢光晴さん)に向かっていったら、俺はどんどん成長できる
三沢さんに関しては、後になって凄さが段々と分かってきた
全日本に上がり始めた頃、最初に『コイツだ!』って思ったのが小橋健太だった
『世界のプロレス』は観てましたけどね。ロードウォリアーズ! 俺はあれを観てたから、のちにノー・フィアーのあのインタビューができたんだよ
三沢さんと初めてシングルをやったときも、「食ってやる」っていう気持ちだけだった。だけど、噛み付いたら、俺の歯のほうが折れる、みたいなね
人間って切羽詰ったら神頼みするんだよ。どうやったら、どこにお祈りに行ったら、三沢さんが生き返るのかなって本気で考えた
猪木さんの本を読み、『頑張ればできる』『思えばかなう』という言葉にしびれた俺は、まさにその言葉を現実のものとした
その本(苦しみの中から立ち上がれ アントニオ猪木 (著))の中には、猪木さんが力道山のもとに入門したばかりのころ、全然スクワットができず、鬼のような師匠に怒られ、殴られながらも頑張って、少しずつできるようになったことが書いてあった
小橋建太は目標であり、あいつを倒すことが目的でもあった
自分が脳梗塞になった時よりも、小橋建太に腎臓ガンが発見されたって聞いた時のほうが、目の前が真っ暗になったよ
(小橋建太選手の引退を聞いた時は?)ホッとした部分はある。怪我や病気があってね。言っちゃったらアレだけど、三沢さんのことがあったから
力道山先生《過去のプロレス漫画で馬場サンも猪木サンも、そう呼んでいた!?》によって日本初の本格的なプロレス国際試合が行われたらしい
三沢さんのエルボーを初めて食らったとき、口から脳みそが飛び出るくらいの衝撃だった
(ジャイアント)馬場さんは別格だった
何も考えずにぶつかっていけばいい試合になる
生き返ったというのを見せたい
(三沢光晴選手からの)影響は大きいよ
いつか必ず立ってみせる
ドジャースの一員となった、この日は生涯忘れません
野茂英雄
自分の成績だけがチームの勝利に結びつくんじゃなくて、投げない日も自分が何かもっとできるんじゃないか
メジャーリーガーになるんだという強い意志さえ持 っていれば、いつかはきっと叶う夢だと信じてやってきました
(引退の決断に際して)自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った
僕を通じてメジャーの良さがわかったというんであれば、それはそれで嬉しい
日本の野球をクビになったからといって諦める必要はない。アメリカに来たって野球はやれる
今、芽の出ていない人も諦める必要はない
新日鉄に入った時もそうでしたが、後輩のことを考えて行動しなければならないという思いがあったので、その面でも責任を感じていたんです。自分の振る舞いが、後に続く人に影響するんだというのは、すごく思ってました
自分の気持ちに正直になった方がいい
せっかく来たのだから、豊岡を、いつか少年野球や社会人野球のメッカにしたい(NOMOベースボールクラブ)
チャレンジしないまま残りの人生を後悔して過ごしたくない
(メジャーリーグで成功できた理由は?)マイペースだったから
自分がプロ野球選手として自立できたのも、新日鉄堺時代に社会人としてのマナーを教え込まれたことが大きい
グリップの低い選手は高めの球が打ちづらい
自分が'95年にメジャーで投げたことは、日本人や現地の日系人にとってすごく大きな出来事だったんだなと思えるようになった
思い切り振れ、思い切り投げろ
僕も(自分の)子供の試合を観に行った時は、なるべく口出さない
(記録とかより)とにかく勝ちゃいい
野球はピッチャーから攻めるゲーム
自分のペースは崩したくない
メジャーは選手会がしっかりしている
野球なかったら、絶対、今の自分はない
(野球とは)育ててくれたもの
(近鉄の球団がなくなって)ちょっとショックでした
日本のボール、ちょっと軽いんですよ、投げやすいですね
やっぱりスポーツ選手は世界に出なきゃいけない
(メジャーリーグに憧れたきっかけは?)BS(放送)でやってて興味があって…
本当なら、もう一年社会人(野球)やりたかった
(メジャーリーグへ挑戦した一番最初の選手であった事について)たまたま僕が最初だったと思うんですよね
小さい頃から早い球を投げたいという事を思っていたら、今の(投球)フォームになった
100勝くらいで満足するためにメジャーに来たわけではない
バントとかやられると「なんや、こいつら、プロのくせにレベルの低いことやりやがって」と
なれるとかなれないとか考えていたって一歩も前には進めません
若い人には、失敗してもいい場所が必要だと思う
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