スポーツ界の名言集
ロシアのコーチやアメリカのコーチだって、いろんな国で教えているじゃないですか。シンクロはロシア流、アメリカ流、日本流とテイストが違うんです。だから、日本のコーチだっていっぱい世界に出ていったほうが、日本流がメジャーになっていくわけです
井村雅代
仕事が来たら、まず全力投球で頑張れ。その仕事が自分に合うか合わないか、まず自分が会社に合わせてみて、その色に染まってみてから判断しなさい。半身に構えて仕事をするなと言いたい
でも、シンクロをやる ことを通して何かをつかんでほしい。人間として成長してほしいんです。できないことができるようになる、その達成感を子供たちに味わってほしいんですよ
あんたは、これがダメなんやな。じゃ、こっちをやってみい
その子に悪いところがあったら叱る、ただそれだけ。コーチとして見たこと、感じたことをきちんとその場で言う
裏でガタガタ言わないこと。練習が終わってから、あの子はどうこうって、女性特有の陰口あるでしょう。あれは絶対しない
たとえ一流選手でなくとも、今より絶対うまくしてやりたい。うまくしてやれなかったら、自分自身が許せない
負けたくない。自分の選手は絶対、表彰台に立たせてやりたい
私、当時から子供たちに怒ってたよ(笑)。ただ、無駄な怒り方やった。いまは年いったおかげで、エネルギーをうまく使えるようになった
いまにして思えば、確かにあのときが最大の試練だったんやろうね。でも当時は辛いとか考える余裕もなかった。ただぐっと堪えるしかなかった
スピンの練習をしていたときです。微妙に合っていないところがあった。感覚としてはわかるけど、具体的に指摘できない。だから、『だいたい合ってるわ』って言ったら2人は、『水の中では違うもんね』って答えた。ムカつきましたよ(笑)。合っていないのが彼女たちにはわかっている。ところがコーチの私には見破れなかった
私が優勝したときのチームメイトを教えていたんですが、デュエットで優勝した双子の姉妹がいたんです。私はデュエットでは3位だったから、力は向こうのほうが上
24歳のとき、大学を卒業して中学校の教師になって1年目にようやく優勝できた。目標を達成したから、すっぱり選手をやめたんです
案の定、次の年に先輩たちがやめたら優勝を逃して、その後は負け続け。あのとき、再び勝つまではシンクロをやめられないと思ったんです。負けっぱなしでやめるのは嫌だった
私自身は大したことない選手だったんですわ。このときは先輩4人がうまい人ばっかりだったから
私は中学1年のときに、浜寺の全課程を卒業したんですが、その時点で、日本水泳とシンクロと水球の3つの種目の内、どれかを選ばなければならず、私はシンクロを選んだんです
私が浜寺に入ったのは小学校4年生のとき。水練学校といって も、プールがあるわけじゃない。海でひたすら遠泳です
泣いて上手になるんやったら、私が代わっていくらでも泣いたげる。泣いてもその分疲れるだけやで!
トライせえへんのやったら帰り!
そんな顔で審判員がいい点なんてくれるわけない!1回、ちゃんと自分の顔を見てごらん!
限界をつくらない『心の才能』こそ一流選手の条件