一般人の名言集
辛い時に誰かに「辛い」と打ち明けることで心の重荷が半分ぐらい軽くなることがある
渡辺和子
好きと愛することとは同じではない
私たちの心が傷つけられ、痛めつけらるる機会も。まんざら捨てたものではない
落ち込んだ時は落ち込むのが良いでしょう。
惨めな思いをしている自分を嫌うことなく、いじめることなく「いつか良くなる」ことを信じて、自分と仲良く過ごしている時、心を覆っていた雲が晴れて、明るい日差しが以前より、輝いて見えてくる
母親が「産みの苦しみ」の後に、大きな喜びを味わうように、愛を生む苦しみも、必ず大きな喜びに変えられる
本気で愛する時、そこには必ず苦しみが生じる、愛する者を持たない時の淋しさとは異なった、愛してしまったが故に味わう淋しさであり、苦しみである
愛の反対は憎しみであると思いがちであるが、実は「無関心」
愛のないところに愛を生み出すことは、時に至難の業となる
痛みを抱えながら生きるのが、私たちにとって、当然のことであり、私たちの人生には同じく痛みを抱えて生きている人への優し さも育つ
母の意に反してキリスト教の洗礼を受けた後も、行いの改まらない私に母はよく「それでも、あなたはクリスチャンなの?」と言って、たしなめたものであった
母に厳しく躾られたことに感謝している
日本の子どもたちに、自分自身である喜びを味わわせたい
教育の重要な役割は知識の詰め込みではなくて、子どもたちに一時的、衝動的善、つまり自分の欲望を抑えてでも、他人を幸せにし、自由に導く真の善が選べる人間になるように育てていくことにある
世界の人口を100人の割合で考えると、高等教育を受けたくても受けられる人はわずかに1人。
だから、置かれた場所で咲くという気持ちを忘れず、自分が今できることを一生懸命励みましょう
ほほえむことを忘れた人たちに、ほほえみを惜しまずに与えましょう。「あなたは1人ぼっちでない」というメッセージを発信し続けましょう。ほほえみには、マジックのような力があります。与えられた人を豊かにしながら、与える人は何も失わない ― それがほほえみなのです
ほほえみには、私たちの心の中にある目には見えない愛を、目に見える形にして相手に伝えるコミュニケーションの役割があるといえます
私たち大人がまず、自分の「したい性」を抑えて、主体性を身につけてゆかないといけないのでしょう。人は、自分が持っていないものを他人に与えることはできないからです
人間はとかく、追いつめられると、目先の善に走りがちです。だから私たちは常日頃、心にゆとりを持ち、物事に優先順位をつけながら生きてゆく判断と意志の訓練をすることが大切なのです
今、子どもたちの主体性を重んじる教育ということがよくいわれていますが、現実には、「したい性」が伸び放題になってはいないでしょうか。子どもたちが真に自由になるためには、したいことを我慢し、または自分に「待った」をかけて、しなければならないことを先にする“もう一人の自分”を育ててゆくことが大切なのです
折あることに子どもたちをしっかり抱きしめて、基本的信頼を持たせるようにしましょう。
そうすれば、大きくなって厳しい現実に直面し、人間の弱さに否が応でも触れざるを得なくなった時も、絶望することなく、98パーセントの信頼と、2パーセントの許しの余地を持って、たくましく、優しく生きてゆくことができるでしょうから
信じるということは大切なこと、美しいことですけれども、悲しいことに人間の世界に“完全な”信頼はあり得ません。信じることを教えるのも教育なら、人を疑うことの必要性、単純に物事を信じてしまってはいけないことを教えるのも教育の1つの役割なのです。それは、神でない人間は、他人も自分も皆、弱さを持ち、間違うことがあるのだという事実に目を開かせ、許しの大切さを教えることでもあります
結婚式当日の2人の幸せは輝くばかりのものだろうが、その後に続く日々は決してその連続ではなく、平々凡々たるものだろう。その中で幸せになるということは、小さくてもいい、「ああ、幸せ」と思える機会をふやすことにかかっている
人間の一生の間に、大きな幸せと呼べるものは数える程しかないものです
ささやかな幸せというものは、また、何か小さなことでいい、自分に課したものをやりとげた時にも味わうことができるものである
決して、毎瞬を緊張して生き続 けるということではなくて、リラックスする時には思いっ切りリラックスするということであり、「今」に、けじめをつけて生きることだと言ってもいいのかも知れない
「今」をたいせつにして生きないと、花は開かない。「今」をいい加減に生きると、次の瞬間もいい加減なものとなり、いい加減な一生しか送れないことになってしまうのかも知れない
「今」という瞬間を意識して生きたいと思う。「今の心」と書くと「念」という字になると気づいた時、「念ずれば花開く」という言葉の意味がわかるように思ったものです
遠い国々で苦しんでいる人々、見たことも聞いたこともないところで、今日、私の小さな祈りと、痛む愛を必要としている人々のために、「今」という時間に愛をこめて生きることができたら、その人の幸せは、もっと大きくなることでしょう
自分自身をいとおしく思える人は幸せですし、自分の周囲の人々を“ごたいせつ”に思える人も幸せです
人間の幸せというものは、そして一人ひとりの人生の豊かさは、愛するものを持っているか否かにかかっています
どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花がより大きく、美しいものとなるために
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです
「置かれたところで咲く」この生き方は、私だけでなく学生、卒業生たちにも波及しました
私 は、かくて“くれない族”の自分と訣別(けつべつ)しました。私から先に学生にあいさつし、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり優しくなってくれました
人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせよう、と決心することができました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした
置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない
自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったので す
初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけはなれていて、私はいつの間にか“くれない族”になっていました。「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」
愛はそれが純粋であればあるほど、苦しみを伴う
今度は他人様(ひとさま)が憂いをお持ちの時、困っていらっしゃる時、悲しみをお持ちの時、病気をお持ちの時、その方の傍らを離れない。
同伴者となる、というような言葉で表してもいいかと思います。
その人の病気を治してあげるわけでも、悲しみを取り去ってあげる、問題を解決してあげるわけでないけれど、「大変ね」と言って、「でも、側にいるからね」と言ってあげる。
それがほんとに優しい方のお姿じゃないかしら、と思う時があります
深い悲しみにも、いろんな悲しみがあると思うんですよ。でも、愛する人を失った人に、愛する人を返してあげることはできませんよね。慰めたくても、物質とかお金とか、家を建ててあげるとか、職を見つけてあげるとか、そういうことでなくて、手の出しようのない悲しみがある。そういう時には、一緒になって悲しんであげてください
人は皆、苦労を厭い、面倒なことを避け、自分中心に生きようとする傾向があり、私もその例外ではありません。しかし、人間らしく、よりよく生きるということは、このような自然的傾向と闘うことなのです
もしあなたが、誰かに期待した微笑みが得られなかったら不愉快になる代わりに、あなたの方から微笑みをかけてごらんなさい。実際微笑みを忘れたその人ほど、あなたからの微笑みを必要としてる人はいないのだから
今や、変えられるものを変える自由が与えられている。必要なのは勇気である
与えることができるのは、人間以外の何ものでもないのだ
目に見えないたいせつなものがこの世の中にある。愛と呼ばれるものは、目に見えなくても伝わります
美しさというものは、修行を必要とする
愛によってのみ「見える」ものが世の中にある
愛するということは、大切にするということである。丁寧に生きるということと深くかかわっている
人に生きがいを与えるほど大きな愛はなく、人から生きがいを奪うほど残酷なことはない
その人が、死後も「自分のもの」と呼べるもの、その人とともに永遠に残るものは、生存中に「与えたもの--愛」なのだ
「化けかた」は教えても、中身からの美しさを教えない