物理学者の名言集
21世紀のいま、戦争を回避しようという人間の理性はどんどん希薄になっているように感じます
益川敏英
私は科学者の端くれとして、戦争に利用されたくはないし、加担したくもありません。戦争で殺されるのも嫌だけど、もっと嫌なのは自分が殺す側に回ることです
科学者というのは放っておいたら自分の研究をしているのが一番楽しい
私は科学者の社会的責任という言葉はあまり好きじゃないんです。科学者であるがゆえに自動的に社会的責任が発生する、というようなニュアンスに受け取れるからです
いつの時代でもそうですが、民衆はそれほどバカじゃない。とことん追い詰められたら十分立ち上がってくれる
本業をやっているときに、本業ばかり突き詰めてやっても効率が上がるかといったら、そうでもないんです。だから、もう少し肩の力を抜いて、まともに考えたほうがいいと思います
ノーベル賞を授与された研究は、人類の発展のためにも殺人兵器にも使用可能という両刃(もろは)の技術といっていいのです
戦争のことを話すことが私に課せられた責任だと思っていました。おそらく自分が戦争の記憶がある最後の年代でしょう。それが何度も戦争のことを話す理由の一つになっています
本をたくさん読むこと。世の中の多くの考えと解釈が分かれば思考の幅が広がる
価値観というのは経験の総体として作られるものだが、経験が違えば価値観も違うほかない
問題を認識すれば人間は必ず困難を乗り越えるものと決まっている。そんな点で若者たちは同僚、友達と徹底的に討論して論争をしなければならない
10年、20年の枠で見れば“逆流”があるかもしれないが、30年単位で見れば世界は進歩している
前を眺める力が何より必要だ。“時間”という概念に振り回されない価値観を持ち、それに合わせて判断する必要がある
私たちには資源がないから科学で立ち上がるしかない。“科学立国”を叫んだ時だった
ノーベル賞は20~30年前の業績が認められることだ。検証するのにそれだけ時間がかかり、今になって評価を受けるものだ
賞というのは与える方や受ける方が同等ではなければならないはずなのに、ノーベル賞の場合には『あなたに決まりました。10分後に記者会見します』と、こちらからは何も言えないような一方的な通報だった
論文を書くときには世界で1番じゃないと論文じゃないんです。1位を取るぞという目標があるから研究者も寝ずに頑張るんですね。2位でもいいぞといった時点で科学は成り立たなくなる
勉強という言葉には苦しみを強いる意味があって私は大嫌い
すぐに役立つという目先で利益追求したのでは見つからないのが科学なのです
目標は、苦しくても決して下ろしてはいけない
出来の悪い子でしたよ、私は。授業は聞かない、宿題はしない、怒られても反省しない
楽しくなければ情熱を持ってできるわけがない
学者になるのも一つの道だが、人生にはいろんなことがある。努力を惜しみなく傾注できる道を発見してください
勉強でも運動でも趣味でもなんでもいいので、他の人に負けない誇りに思える何かを見つける手助けをしてあげて欲しいと思います
研究者が「面白い」と思うことをベースに研究するころが非常に重要です
今の世は勉強した知識を楽しむ余裕がないでしょう。『考える』のではなく『暗記する』ことに重点が置かれている
学習とは「何がおもしろいかに気づくこと」であり「楽しいと思えることが才能」
(日本の親は)教育熱心ではなくて、結果熱心である
小学生は理科が好きですよね。それ以降嫌いになっていくということは、面白くなくなるように教育しているということでしょう。僕は『教育汚染』と言っているんですよ
試験のシステムは複雑化しすぎです。もっとシンプルでいいはず
アメリカの自然科学の分野でも、『研究者』は少なくなり、お金が儲かる仕事へ流れている。日本も同様です
恩師の坂田昌一先生は自分のことを「先生」ではなく「さん」で呼ぶように言っていました。理論物理学の世界は、堂々と議論をするためには対等でなければいけないからです。「先生」と呼んでいたのでは学生は反論がしにくい。「先生」も生徒を意識し、正しい議論ができなくなります
近年ノーベル賞受賞者が多数出ているからといって、現在の日本の科学の現状が万万歳ということにはならない
科学にロマンを持つことが非常に重要
我々は科学をやっているのであってノーベル賞を目標にやってきたのではない
才能を伸ばすという意味においても、付け焼き刃的なものではなく、自分の身に付く勉強をしなければならないんです。受験のためだけの勉強は、無駄といってもいいでしょう
江崎玲於奈
入試よりも学内での試験を厳格にすることが、いわゆるレジャーランド化を防ぐ方法の一つです。大学は、やはり学ぶ場な んですから。ですから、大学を卒業するときの試験が重要なんです
もし、日本の教育が個人のタレントを引き出し得ないとしたら、日本の社会は衰退してしまいます。アメリカの教育では、少なくとも日本よりそうしたタレントを育てられているんじゃないかと感じています。その点で、今の日本の教育に危機感を抱いています
アスレチックなタレント、音楽的なタレント、芸術的なタレントを育てる場は学校以外の場にもありますが、アカデミックなタレントを育てる場は、やはり学校しかないんじゃないでしょうか。それが私の考える教育改革の出発点です
遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者はネイチャー(天性)だと言い、社会学者はノーチャー(育成)を重視したがる。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています
いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ
人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(受容)せざるを得ないと思う
科学はもちろん、非常に鋭い、知性のもとで、研究を進めるわけですが、やはり、直感と、霊感をたよりに暗中模索、悪戦苦闘、試行錯誤を繰り返す、たまにやってくる幸運、チャンスがある
サイエンスには二つの面がある。一つの面は、非常にロゴス的で、客観的で、理性的で、冷徹で、厳密な論理的な面、教科書に書いてあるような面です。要は、仕上げられた結果で、学者としては講演会などで胸を張って発表するものです。もう一つの面、別の面は、新しい成果が生まれる、創造のプロセスです
宇宙というのは、宇宙の起源、あるいは物質の起源、生命の起源に対する興味は非常に大きいものがある
研究というのは、自然科学とかサイエンスというものには、サイエンティストだけじゃないかも知れませんが、自然を愛する人たちに非常にアピールすることが二つある。ひとつは、宇宙ということです。コスモスとかユニバースとか。もうひとつは、生命ということです
一般的に日本の若者は「こうやれ」と言われるとよくできます。しかし、自分から何かを発見する事は苦手です。それに挑戦する精神も乏しい
日本人は先ず模範生を決め、競争する。だが、考え方が呪縛されている。ノーベル賞を取るには、どんな勉強をしなければいけないか、と
科学とは自然の本質を理解し、新しい知識を創造すること
全体から物事を考えることは、イノベーションの促進のみならず環境に適応していく上 でも欠かせない。異なる観点を持ち込み、関係性をとらえ直すことが必要だ
時には、踏みならされた道を離れ、森の中に入ってみなさい。そこではきっと、あなたがこれまで見たことがない何かを新しいものを見いだすに違いありません
人は欠陥が多く不安定な方が創造性がある。立派な人格者を育てる教育に、創造性が入る余地はない。日本人は皆立派で完成されているが、完成した人格は進化を受け入れない
日本の学問は、ものを習う「修得型」で、何か新しい事に挑戦する「探求型」が不足している。というより、「探求心」の教育を受けていない
元来、人間は死を免れることが出来ない有限な存在である。それだけに、絶対的なもの、永遠なるもの、確実に信じられる知識を求めるロマンとでも言えるものを持ち合わせているのではないであろうか
仮に科学の銀行というものがあるとすると、日本は引き出す方が多く、入金が少ない。日本は科学技術では債務国です
将来は過去や現在の単純な延長ではなく、まったく別のアプローチからブレイクスルーやイノベーションが生じます。ですから、科学者は忠実なフォロワー(追随者)であるよりも、独創的なリーダーでなければいけません
あらかじめ進歩が組み込まれた文化であるということ。これが科学の特徴です
誰しも成功を目指して努力をしているのですから、成功そのものは望ましいことです。しかし半面、よほどの分別力を持たない限り、自惚れや自信過剰のために目が曇ってしまい、次から成功が難しくなります
人間が成功する条件というのは、個性的なタレント(才能)、それを磨くためのハードワーク(努力)、そして人知を超えたチャンス(運)。この三つの組み合わせであると思います
何か絶対的なものを信じすぎてはいけない