芸能界の名言集
ふだん何していますかと聞かれるでしょう。芝居を観たりします、というと、勉強家ですねといわれるけど、そうじゃないのね。楽しいの。観てるときって。やってるときよりいいときがあるし(笑)
坂東玉三郎
ぼくは今、自分が詩とか文学、あるいは絵や彫刻など、ある意味で自分だけの孤独な作業で自分を表現しているのならば信じられると思うんです。でも現実に、今皆さんの前で踊ったり、芝居をしたりしているなんて信じられない。実感がない。こんなことを言うと、信じてくれないかもしれないけれど、本当なんです
自分に協調性がないから、普通に暮らしていけるかどうかという意識があって、自分に劣等感があったわけでしょう。兄たちも、母に「こんなに甘やかして育てちゃったら、とんでもないよ」なんて言う。そういうのを聞いて育ったものだから、自分が絶対に駄目な人間だと思っていた。
公には言いませんけど、個人的に、友達とするんですね、「自慢させてね」と前置きして言って、合槌を打ってもらうんです。実際、自分で良いと錯覚するくらい、うまい合槌を打ってくれる人がいい(笑)。「ふんふん」じゃなくて、「ほんとにねえ」と言って欲しい(笑)
自分の作品とか批評、写真に対して割と客観的なんですね。だからすごくさめているんですけど、時には自慢ぐらいしなくては生きていかれない(笑)と、自分でほめたりしてるんです
やっていることが私なんです、とお答えするのが一番確実なのかもしれない。それで、そのときどき偶然に見えるものが事実だと思うんですね。だから、昨日言ったことが本当か、今日言ったことが本当か、じゃなくて、どちらも本当なんです
本当の核心は無意識の中にあるというか、言葉にするとゆがみが出ると思います。だから、ある意味では、話をするのがめんどうくさい、というところがあるようです
皆さんがおっしゃるほど、自分の舞台上の姿が自覚の中にないんです。ですから、聞かれるたびに答えていても、それは意識的に作った答え、演じていく過程、役を教わった過程での方法論の言葉が自分の中にあって、その言葉で答えていくだけなんです
父の時代は、自分の父親に習える役でも他人に習いに行けと言われたらしいですね。うちの父も自分の父親から習ったものはほとんどないと言っていました
テレビで商社マンの教育をマンツーマンでやるのを見たことがありますけど、ああいう感じです。もう今はやりたくない(笑)と思います。こう言われたらこう言う、ああならば、ああするとか、きっちり教えてくれるんです
三食小言付と言っていたんです(笑)。朝から晩までずっとです
とにかく女形は立役に添わなくてはいけないと教わりました。たとえば、立役が小道具を落としてしまったら、次に使い易い所に芝居の中でちゃんと置き直すとか、立役に寄り添う時にはどうしたらいいかとか、そんなふうに演られると相手が困るとか
稽古だといって出かけては、内緒で映画や外国からきた公演とかを見に行ったりしてたんですね。それまで父が厳しくてぎゅうぎゅうやられてましたから(笑)
演りたいものが歌舞伎以外の世界にも広がっていって、いろいろなものをさせていただくようになったんです
教えてくださる時に、「私は女優としてこう演っているけれど、先輩の女形さんたちはこうとこうとこれがあるから好きなのを選んでどうともなさい」とおっしゃる。「喜多村先生はこうなさった、花柳先生はこうなさった」とおっしゃってね、「あなたのくふうでなさいよ」と言いながら教えるときはきちんと教えてくださ いました
初めは良重さんのお母さま。大先生でしたけれど、ぼくは共演するようになってからは他人というイメージがあまりなくて……。新派の女形の芸を女優の芸に翻訳なさった方で、素晴らしい方です
『熊谷陣屋』なんですけれど、相模の入りから通して演ったんです。あの暑い夏の京都で。それまであんまり忙しかったこともあって、ぼく、ノイローゼ気味になりました
共演は初めてでしたけれど、その前にすでに『お染の七役』を教えていただきました。あの『お染の七役』は早変わりで七役を演じるもので、長いこと上演されなかったのですが、昭和の初めに国太郎さんが復活なさったのですって
芸の力でいいお三輪はこれからも出来るかもしれないけれど、その時のお三輪の花は今日一日で終わる、ということじゃないかと思っています。思いがけずほめていただいて励みになりました
若草座というのは父が若い頃やっていた会で、それを復活したわけです。青年歌舞伎祭というものがありまして、△△会とか、会を作って参加する催しだった。若草座は2回もしていないんじゃないかな
ぼくは日記を書くことができないんですけど、その代わりに14、5歳の頃から見た芝居や映画のプログラムがとってあって、それをみるとその芝居や映画を見た時に考えていたことを思い出すんです。プログラムを見ると、この頃は何を考えていたんだとわかる。だから、見た物と自分が舞台に立った時のことが思い出になっているんですね。そんなふうで、あまり記憶の整理ができないんです
協調性ゼロといったほうがいいかもしれない。だから学校で困りました、協調性がないってことで(笑)
学校では体育はやらない、運動会には出ない、遠足は行かない、旅行は行かない、でしょう。ほとんど団体行動をしたことがないんです。学校にも悪いことをしましたね。だから、他人と大勢で何かするというのが苦手ですね
この子は無事に暮らしていけばいい、という気持ちで育てていたので、何か欲しいと言えば買ってくる、あそこへ行きたいと言えば連れて行く
大塚って昔の下町の面影があっていいでしょう。よく六義園なんかも歩いて遊びに行きました
両親が芸事を好きだった。映画へもよく連れて行ってくれました
14歳で父(故守田勘弥)の芸養子になってこの家に入るまでは通っていました
6歳の時に踊りを始めて、弟子入りして、7歳になって本舞台がありました。子供だからなすがまま、というか、おだてられるがまま(笑)。「よく踊れた」とかほめられると、子供だからつい踊っちゃう(笑)
両親は、とにかくぼくが無事に暮らしていけばそれだけでいいと思っていたし、ぼくも無事にしていればいいんだなと考えていたので、何かひとつの仕事をしよう、ということは本当に考えなかったです
雷も恐くて、雷が鳴ると家の中は恐いから外へ出たいという。外に出ると鳴っているので家へ入るという。雷の鳴っている間中、それをやっていたらしいです(笑)
ぼくは小さい頃、夜泣きソバ屋さんのチャルメラが恐かったんです(笑)。それで、チャルメラが聞こえると泣くわけです。寝つきの悪い子だったらしいんですよ。それが寝ついた時にくると、起きて泣くので、もう、親がチップをあげて、「この辺にくるな」って頼んだそうです(笑)
脚が疲れて、それが上にのぼってきて、肩が凝ったり頭痛がしたりするんですね。弱いほうの脚というより、それをかばうほうの脚が疲れますね。でも、本当になんという職業を選んじゃったんだろうと思う時がありますよ
克服するというより、なんで不自由のある人間が舞台に立つようなところへいっちゃったのか、と思ったくらい(笑)
父親がネコっかわいがりにして、どうしても病院に入っていなければならない病気の感染期間が過ぎると、うちで治療するからといって、治療器具を買って、病院から出しちゃったんです。とにかくそんなふうで……
5人兄弟の一番下で全部生きていれば7人兄弟ですけど、ぼくのすぐ上の兄と、もう一人の兄が死んでいるんです。それで、兄たちとだいぶ年が離れていて、両親が40をすぎてからの子供だから、本当にネコっかわいがりだった
わがままだし、さびしがりやだし、気はきついし(笑)、大人みたいなことを言うし……、何でも思うとおりにやる、そんな子でした
台詞がとんだり、いわゆる「ろれる」というか
すごくあがりますよ。震えがきちゃう、もう。『メディア』の初日の時なんか、前で見てらして、あがってると思いませんでしたか。舞台稽古の時はそれほどでもないんですけれど、お客さんが入ると、もう……
翻訳劇の時なんか、スカーフしたりスカートはいたりして、なるべく照れないように苦心してます
ちっともうまくないから、人前ではあまり……。それに、すごく照れ屋なんです。ただ、一回照れずに人前で何かできると思ったら何時間でもやってる。芝居でも、幕が開くまでは照れている。幕が開いてしまって、演劇としてやっていいというエクスキューズから演れるんですね
家の人には聴かせますけど。子供の頃からそうなんですね、身内には「もういい」っていうまで、やってみせるんです(笑)。『悲愴』の第二楽章もやさしいから、よく弾きます。歌うのも大好きです
バイエルを終わってすぐに、『月光』をやったんです、ベートーヴェンの『月光』。めちゃくちゃというか、冒涜というか(笑)、楽しみでやってますから、そこらへんの腕で止まっているんですけど
10歳ぐらいの時からピアノはひとりで弾いていましたけど、教則本は全然やらなかったんですね。それで14歳で玉三郎を襲名して、お稽古事が始まって、そのひとつの課目にピアノが入っていたんです。けれど、その時もバイエルも終わらないうちに忙しくなってしまって、きちんとはできなかった
世の中の大勢と脚並みを揃えられない場合には、世の中じゃないものになるしかないじゃないですか。自分が違うものになって自由なところに脚をおろす
美の基本はやはり丁寧でなければなりません。私は、力技で他人と対さないということが、日本人ならではのやわらかさだと思います。他人への気遣いであり、優しさであり、また所作が丁寧であることもやわらかさに繋がるのだと思います
遠くを見すぎると、足下がおろそかになるのかもしれません 明日に向かって前進することが大事なのでしょう
進歩するには背伸びも必要でしょうね。ちょっとずつ背伸びして、その時の自分よりも装って発言したり行動する。そして次にその背延びが嘘でないように努力するわけです。
昆劇を演じるという形で中国を親しく知るとは思わなかったが、自分の体を通じて中国に入れたことが幸せだった。これを機会に深い中国の思想、文学、芸術を知りたい。これからもすばらしい時間が過ごせる劇場空間をつくっていきたい
日本の芸能というものは付け加えられてはいますけれど、非常に削ぎ落とされた端正なもの。日本ほど口伝で歌舞伎なり能なり、人間同士が引き継いできたというのは、珍しい国かもしれません
伝統芸能であろうとも近代のものであろうとも、お客さまが〝生きていて良かった〟という時間を過ごしてもらうという事が意味だと思います。そういうものを舞台でお見せする事が私達の使命だと思っています
伝統芸能を引き継ぐ意味というのがここで答えられるのであれば、追求する必要も無いですよね。引き継ぐ意味というのは、言葉では表せません
型破りな演技は、型を知らずにはできない 型を知らずにやるのは、型なしというのだ
気楽にいけばいいんじゃない?
さよなら公演で、力を使い果たしたんです(笑)。大きな節目ということで、ちゃんとしたものをお見せしなければならな いという気持ちがあり、没頭しましたから。しばらくは、芝居から離れて、客観的になりたいなと。一方で、これからは、“若い”“きれい”ではない、新しい役に取り組んでいきたいという思いもあります。でも、次のステップに行くためには、続けながらだとわからないし、一度、自分を緩めてやりたかった
会うことも会話もできない中で伝わるものが、魂なのではないか
三つの作品を通して私が理解したことは、ある一定の場所に籠もって修行することの大切さでした。テクノロジーに囲まれている今の都会を離れて自分と向き 合い、純粋性を保ちながら、人間として、そして芸能者として真っ当に生きることを此処で望むのです
所作だけを最小限やるような稽古と、没入して振り切れてしまったような稽古を両方やっておいて、その中間のところにさっと降りて、本番の舞台をやるのです
遠くは見ない。明日だけを見る
自分は成功を獲得するために舞台に上がるのではなく、舞台上の鮮やかな衣裳やイメージが好きなわけでもなく、なぜ舞台に上がるのかと言うと、観客の皆さんの前で演じる時の自我を忘れる感覚を求めてのことなのです。もし常に自分が出て来るなら駄目です
ぴかぴかしていればお金がかかっていると思われがちですが、さりげなく普段着のようにすることのほうがすごいんです
一人の俳優であり、何らかの大物でも芸術家でもなく、芸術の完璧さの追求には終りがなく、最大の成功は、公演が終わって大きな幕が降りた瞬間、場内の観客の顔に満足の表情が見える時です
作ってる方は考え抜いているんだけど、使っている方はその工夫に気づかなかったり、ふとその妙に気づいたりするもの。例えば、絹のくずで作ったごしごしタオルとか
「便利」っていう言葉をちゃんと吟味した方がいいと思う。使わない方がいいと思う。「すぐれもの」という表現を使いたい
麻痺してきてるところがありますね。僕の方が自販機のこと言うの、早かったの、都知事より
日本は、蛍光灯を使いすぎね
自然の生活から戻ってくると、電気をたくさん使った、東京のブランド広告のディスプレイやポスターに違和感を感じます
私は東京育ちだから、ネオンがないと不安という感じだったけど この歳になると、「闇が闇でないと嫌だ」と思うようになります。東京の必要以上の明るさは不自然だし、不健全
実現させるエネルギーをしっかりと蓄えて、いつかそれを爆発させる力を持つこと。えらそうなことはいえませんが情熱を持つことを忘れないでもらいたいと思います
中村獅童
趣味でもなんでもいいと思いますが、好きなことって子どものころから変わらないと思うんです。1つのことを続けることはとてもすてきなことだと思います。あきらめずに夢を持って追いかけてください
とにかく充実した時間を過ごしたいですね
気持ちは20代も30代も40代も変わらないですけど、自分がこれまで経験してきたものを土台に、歌舞伎においても40代のうちに新たなチャレンジをしてみたいと思っています。それが新作という形になるかはわからないですけれど
『毛抜』や『鳴神』のように「ザ・歌舞伎」といえる歌舞伎十八番ものがあり、『供奴』『連獅子』という舞踊があり、『瞼の母』『権三と助十』という「書き物」の世話物があり。歌舞伎のさまざまなジャンルの演目を楽しんでいただけるんじゃないかな、と
『権三と助十』は今回の演目の中でも、実は一番難しいかもしれないですね。でも、みんなで力を合わせて、活気あるいい舞台にしたいと思っています
『瞼の母』にしても、長谷川伸先生ならではの「謳って」言わなきゃいけない台詞があるんです。そこをスラスラ~っと流して言ってしまったら、長谷川伸先生特有の言い回しの味わいがなくなってしまいます
時代物の経験をきちんと積んでおかないと、さっきもお話ししたように「歌舞伎味がないね」と言われてしまう
これから稽古しながらみんなと相談することも出て来ると思いますけど、お兄さんがおっしゃったことをしっかり肝に命じてさせていただきたいと思っています
実は(坂東)三津五郎のお兄さんが病気療養の発表をされる前の日に、全然知らずにご相談にお伺いしたんです。お兄さんは権三も助十も両方おやりになっているし、芝居のこともよくおわかりになってらっしゃるから
まずは型のある時代物から教わって、だんだん自分の味がつかめてきた頃に、こうした世話物をやるようなる。順序があるんです
これ(権三と助十)もいわゆる「書き物」で、大正時代に書かれた岡本綺堂の世話物です。おかしみのあるわかりやすい話ですから、楽しんでいただけるんじゃないかな
初めて観る方は台詞の意味が100%は分からなくても、ストーリーは簡単なので楽しんでいただけると思います
ある種の台詞劇でもあるんです
実際に衣裳を着けて舞台に立つと、思っていた以上に大変でした。最後はバーッとまくしたててしゃべるので、決まったところでちゃんと息を吸えていないと、最後まで台詞が言えなくなってしまう
台詞と台詞の間の句読点の部分のどこで息を吸うかも、すごく重要な演目なんです
傍目には大して動いてないし大変そうに見えないんですが、台詞の量が膨大なので、ものすごくキツいんだよ、ということをおっしゃっていました
スケベで出来すぎてない人というのが現代劇にも通じるものがありますよね。ちょっとひょうきんな二枚目半のところもありつつ、次々にトリックを解明していく。今でもドラマにありそうな主人公のパターンだと思います
そう、男にもセクハラするんです(笑)
僕もそんなポップでシュールなところが大好きで、浅草歌舞伎の時も、若い人たちにぜひ観てもらいたいと思ってさせていただいたんですよ。「若い方たちも観て楽しめる演目を」ということはいつも考えていますね
もうね、“大人計画”の方がこれを見たらすぐパロディにするんじゃないかって思うくらい
リアルに考えたらおかしいことばかりで、いい意味で歌舞伎が持っているバカバカしさが満載なんです。そもそも「髪の毛が逆立つ」というお姫様の難病がおかしいし、話のカギを握る毛抜が異常にデカイとか、言い出したら切りがない(笑)
本当に「ザ・歌舞伎」と言いたくなる演目ですね
若手中心の浅草歌舞伎で10年近く前に初めてさせていただいたんですが、勘三郎のお兄さんと共に、残念ながらもういらっしゃらないお二方への思いも込めて、させていただきたいなと
これ(歌舞伎十八番の『毛抜』)も実は亡くなられた(市川)團十郎のお兄さんに教わったんです
勘三郎のお兄さんは僕がどんな役をさせていただく時にも「心が大事だ」ということをおっしゃっていました。教わったことを大切に、自分なりの忠太郎像にできればと思っています
長谷川伸先生の作品はご自身の経験もあると思いますが、母と子の作品が多いんです。中でもこの作品はストレートに、生き別れになった母親を恋い焦がれる物語。とにかくハートでやる、ということですね
やはり母親を想うという気持ちが一番大事だ、と
勘三郎のお兄さんは「忠太郎みたいな役は獅童に合うよ」とおっしゃってくださいましたし、錦之介の叔父への思い入れもあって、今回、ぜひさせていただきたいなと思いまして
実際に僕が忠太郎をさせていただく時には、小日向のご自宅でお稽古していただいたんです
台詞がたくさんある役は初めてだったので、歌舞伎の中でもリアリティのある「書き物」ならではの芝居を稽古していただきました
勘三郎のお兄さんが勘九郎時代に歌舞伎座で忠太郎をおやりになった時に、僕は弟分の半 次郎という役をさせていただいたんです
忠太郎は(萬屋)錦之介の叔父も当たり役と言われていた役柄で、僕にとっては亡くなられた(中村)勘三郎のお兄さんにお稽古していただいた、思い出深い演目なんです
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