ちばてつやの名言集
初めて原稿料をもらった感激は今だに忘れられない
ちばてつや
みんなに支えられて一生懸命描いている、そのものが今の僕の最大の生き甲斐
やはり漫画しかない。漫画を描く作業は苦しいが、描き上げた後のあの充実感は他のどんな仕事にもない
人と会ってもテレビを見ても本を読んでも、道を歩いていても、全てを漫画に結びつけている
僕は「あしたのジョー」で初めて血しぶきを描いた。それまではその必要はほとんどなかったし、必要があっても極力避けてきた
改めて自分の人生を振り返ってみると、不思議な何かにずっと導かれてきた気がします
マンガを描けば、遊んで得るのとは次元の違う充実感を得られる
僕は漫画を描くのはあまり早いほうではない
自分が楽しんで描いている分には、何を描いてもいい
漫画家 として立つには先生についたほうがいいか、独りでコツコツ勉強したほうがいいか、とても簡単には答えられない
人間の強さは、不完全な自分を乗り越えようとすること
人間って誰でもみんな苦しんで、いつもいつもよじ登ろうと足掻きながら生きてるんだなぁ
僕らの年代は皆、画風は違っていても原点では手塚さんの漫画に繋がっている
独学でやっていると、全て試行錯誤によって身につけていくわけだから、大変な苦労がいるし、時間もかかる
僕は漫画を描きながら、ずっと登場人物と会話をしています
生きていると、しょっちゅう壁にぶつかる
ただの紙っぺらが、世界中の人が拍手で迎えてくれるものになる
子どもたちの心は非常に純真だし、つまり真っ白
初めて描き上げた長編漫画。その喜びと充実感は口では言えないほどだった
私よりちょっと年上の人たちはお国のためだと爆弾を抱えて突進し、自分の命を投げ出して散っていった
ジョーの生き方そのものが完全燃焼だったように、僕も与えられた時間の中で、常に完全燃焼したい
1日1日が私の人生そのもの
あるシーンを描いていたとき、自分が無意識に封印していた戦時中の残酷な記憶が呼び覚まされたこともありました
この 学校に来て、僕は初めて漫画を描くようになった※小梅小学校
私は、目を酷使したんで、片方の目がもう半分見えないんです
漫画家になる上で、紙芝居の影響はあまり受けていなかった。その代わり映画からは非常に強い影響を受けた
マンガのことを忘れる時間も必要
今は大人も漫画を読みますが、昔は子供の為のものでした
上手い下 手が全てじゃないし、挫折を乗り越えて一生懸命に描くのがやっぱりいい
漫画家になるには才能とかセンスとか個性とか、そういったものが必要である事はもちろんだが、それ以上に漫画が好きであること、机の上で頑張れる力を持っていること、この二つが大事である
漫画の面白さには男も女もない
僕自身は漫画家になって良かったと思っている。しかし人には薦め難い。締め切りが迫っているのに、どうしてもアイディアが湧いて来ない時、五分でも横になりたいと思うのに、それが許されない時…
手塚治虫さんにしても、石ノ森章太郎さんにしても、何人かのすばらしい作家って、ちょっと女性っぽいところがあるんですよ(笑)
覚えていますが原稿料は1万2,351円でした
週刊連載をしていたときは一週一週、命を削るつもりで描いていました
初めて漫画を見たのは戦後、満州を逃避行して命からがら日本へ帰ってきてから
トキワ荘は漫画界に詳しい人なら誰でも知っていると思うが、戦後の日本漫画史の要ともいえるようなところであった
母は漫画が嫌いでした
自分のことだけ描いていると、作品の大きさに限りが出てきてしまう
(ジョーのモデルは?)僕がボクシングを描いた最初の漫画は、『魚河岸チャンピオン』(1965年)というんですが、モデルというわけではないけれど、沢田(二郎)のことがイメージにあったのは確かでしょう
人間の悩みや生き様を描くようになって欲しい
マンガを最後まで描くのはすごく労力がいる
一生懸命にやっている人たちを描いていたい
成功する人というのは、全部の人間の1%か2%に過ぎないでしょう
漫画も気の利いた人はアイディアのひらめくままにパッと話を作り、サッとコマ割りを進めていく。僕にはそれができない。アイディアが閃いて天啓のように面白い話が浮かんでくる子どもはあるが、その場でサーッと描いてしまう事が怖くてとてもできない
誰もが頂点に立てるわけじゃない
(赤塚不二夫さんはどんな方だった?)とっても繊細なんだけど、周りの人を喜ばせてあげたい人
生まれは東京ですが、すぐに満州へ渡り、6歳まで奉天(現・遼寧省瀋陽)で育ちました
漫画を描く子って引きこもりが多い
起きた時でも夕方でも「オハヨー」というのが僕のクセである
女の子を描くのはあまり得意ではない
描いている途中で自信をなくして、いやになってしまう人が多い
新人のうちはまず短編で勝負しなければいけない
昔はマンガって勉強で疲れたときとか、親とか先生に怒られてがっくりしたときに救いを求めて読むようなものだった
昭和31年5月25日 僕のデビュー25周年というのは、この日が出発になっている
新人時代に編集者がたまたま、ある1コマでクスっと笑ってくれたことで自信を持てた
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