工学者の名言集
だってラーメンの味って、いうたらほとんどグルタミン酸ナトリウムの味やん。ぼくラーメンチェーンのラーメンって純粋に味の素の味がして、さわやかやとすら思うよ
石黒浩
ぼく誕生日にカップヌードルを50個もらってから毎日カップヌードル、全然オッケーだった
VTRで見てたら大林さんが若手芸人が帰ったあとに一人で洗い物しながらマツコロイドに『みんな帰っちゃったね……』って。もうね、私たち二人で生きていくしかないよねっていう感じが……
最近、工場見学が流行ってるでしょ。あれをみんな見たい、楽しみたいと思ってる。だから回転寿司でロボットが作ってるところを全部表に出したようなレストランってめっちゃ流行るんじゃないかなと。少なくともそういうものは絶対に出てくる
アンドロイドがべた褒めしてきたらみんな信用する。"ロボットウソつかない"やね
今、高島屋でミナミちゃんっていうアンドロイドが服売ってるんだけど、こないだ結果見たら、男性服売り場で売り子24人中の6位だった
上海の空港で上海蟹の自動販売機っていうのがあってめちゃくちゃ売れるの。店で売ってる上海蟹は価格も衛生管理も信用できない。でも空港の自動販売機は冷凍の設備があって汚くないので、そっちのほうがよっぽど信用できる。ロボッ トの方が信用度高いわけです
回転寿司は表に機械を出してロボットが作ってますって見せるのが主流になりますよ。大衆向けの居酒屋チェーンなんかもそう。そっちのほうが絶対に気持ちいいんです
機械が握っててネタを置いてるだけなんやけど、手袋した生身の人間がネタを置くのとロボットが自動的にネタ置くのとどっちが気分いいですか? ロボットでしょう。ロボットが全部作ったらまったく気持ち悪さがないんですよ
ごはんを作るロボット。ロボットレストランっていう話。これはねぇ、書いてもいいけど、回転寿司があるじゃん。ぼく次の回転寿司は多分こうなるだろうなというのがあって、回転寿司って機械で作ってるところが多いでしょ。あれなんで表に出さないの?
ヨーロッパの国っていうのはロジカルな世界で、言語の世界で対話をしないとうまくいかない。だってぜんぜん言葉のちがう連中がたくさんいて、常にいろんなものを探り合ったり取り合いをしてるからね
日本はね、それでいいんです。島国でみんな目を合わせただけで会話ができるくらいに特殊なプロトコルが発達してるからね
フランスでもどこでもコミュニケーションとしての食を大切にする。西洋的な文化は人間の社会に素直なんですよ。日本はちょっと違うかもしれない。儒教の文化でかなり制約をかけてるんですよね。でもぼくその素直じゃない文化、好きなんですよ。ぼく武士道大好きだし
食(しょく)っていうのは動物的な行為と人間だけがかちえた言葉の世界、人間の社会性をつなぐのにすごく便利なんですよ
食欲と性欲って非常に近いんですよ。でも食のほうがソーシャル。性っていうのは一対一で個人的、パーソナルなもの
ロボットが動作をすべて正確に再現する必要はなくて、唇の動きしか同期していなくても自分の体だと認識できる。一部の動き(唇の動き)がちゃんとつながっていると、その体を自分の体だと錯覚する。脳と体は密にはつながっておらず、脳は予測のもとに活動しているんです
研究者はいったん分野ができると、それしかものが見られなくなる。でも、そもそも研究というのはそうじゃない。既存の分野にとどまっていたって新しいことがやれるわけないんです
より広い視点で、人間が行動するとはそもそもどういうことかを考えれば、まだやられていないことが見えてくるんです
人間が生きている唯一の意味って何だと思います? 僕は、お金を稼いだり、ご飯を食べて子孫を残したりすることではないと思う。それだけならば他の動物と同じです。『人間とは何か』それを考えることこそ、人間が生きる意味だと思います
人工知能の半分くらいの研究は視覚の研究からきている。人間が情報を得る手段の90%は視覚だからね
世の中に自分一人しかいなければ、おそらく感情も心もない。人が人とかかわる中で心は表出してくる。とすれば、常に見えていると考える方が自然だろう
ではアンドロイドは人間を越えられるのか。その挑戦を私は始めているところです
特徴的なのはアンドロイドの電源を切ったときの様子。空気が抜けてだんだんしぼんでいくんですが見た人はそこに人間の死を感じるんです。アンドロイドは人間よりも人間らしい死に方を表現できるんじゃないかと思います
では、体を機械に置き換えた人間に残るものはなんなのか。ロボットと人間の差はなんなのか。人間とは何か。何が人間を人間たらしめているのか
人間の中身は機械で再現できてしまう。生体原理に基づけば、心のゆらぎも再現できる可能性がある
人間とは何か考えてもわからないけど、考えることをやめられない。それが安定であり幸せ。そういうことを共有できるような宗教をやりたい。それはいってみれば科学ですけども、一般の人は宗教と言わないと敷居が高いだろうから
頭の中が言葉にあふれるような思いをしないと、僕らは前に行かないんだよ
24~25歳の頃、アイディアが出なかったら死のうと思っていました。アイディアが出なくてドクターをとれなかったら死のうと決めたんです。そう思ってときどき体がぶるぶる震えていた。人間、死ぬ間際って震えが止まらなくなるんですよ
(人間とは何か。何が人間を人間たらしめているのか、のヒント)人に歴然とした心はなく、相手に心があると思うから自分にも心があると信じている
ピカソはまだ数学的というか、科学や技術でたどりつける範疇にある気がするけど、シャガールはもう人間そのものの写し絵みたいだと感じます
そ のうち仏教みたいに「無」にたどりつくかも。最後は宗教かなぁとも思いますよ。産学連携ならぬ教学連携かな(笑)
人と関わるロボットを作るには人を知らないといけないということ。ロボットを作ることは、人とは何かを知ることなんです
自分が人間じゃないかもしれないと思うことのほうが、疲れることよりはるかに怖いです。人間とは何かがわからなくなればなるほど、人間になろうとするものです
我々は税金で研究しているわけですが、税金を払う人は研究を同じレベルで理解しているとは限らないわけで
だからシャガールに憧れます。あの人は何も考えずに描いている。そこに強烈に人間味みたいなものを感じる
昔は画家になりたかったんです。でも、自分は絵も論理的に解析したくなるタイプです。でも職業にするほど才能が無いように思ったのであきらめた
同じものを食って、美味いとか嫌いとかこういう野菜で作ってて、ってすごくあいまいで主観的な知識だけどある程度共有できる客観的な事実も入ってるわけ。だから食とコミュニケーションというのは非常に近い関係にある
主観と客観を入り乱れさせることを対話っていうんです。完全に主観だけの対話は対話じゃない。だって一方通行になるから。なにも共有するものがなくなってしまうでしょ
主観と客観が入り混じってるのが食。だからこそ、ある種のコミュニケーションであり社会的な行為にもなり得る
たとえば自称ワイン通なんて容易くごまかせる。だから食の文化って長くつづくんですよ。完全に客観的な世界なら科学者に勝てるやつはいないわけだからね
主観と客観の間が食なんです。客観的な意見は社会的に認められる力が強いわけだけれど、一見客観的な意見を言ってるようでじつは主観でしか意見をいってないのが食なんです
食はそのあたりがあいまいで『私はこれがおいしい、私はこのワインが好きだ』って主観でものを語っていい分野なんです。だからそこにデータを持ち込んで科学的に正確な評価を与えてしまうというのは食の 楽しみの本質を見失うことになる
『客観的な事実はどうでもいいの、私はこう思う、それに共感してください』と伝えるのにコミュニケーションのなかで食(しょく)が一番やりやすい。食以外のものはもっと客観性が強いんですね。知識があるものが勝っちゃうわけ
食(しょく)っておもしろいんですよ、主観的なんです。たとえば女性はとくにそうなんですけど、私はこう思うってことを伝えたいわけでしょ
次にごはんを食べるロボット。味がわかるロボットは九州大学の先生が作っててあれは人間よりはるかに味がわかる。でもね、ごはんで正確に味がわかっていいかという話もある。たとえばワインの味が正確にわかるロボットができたらワイン自慢はいなくなってしまう。必要なくなるからね
君ら発想力たりんな。全部食べんねん、まあ骨は残してもいいけど
うちのジェミノイドF(石黒教授が手がけたロボットのひとつ)いるやんか、あれ食えたらどう思う?
食(しょく)ってすごく人間らしいじゃないですか、食にからむロボットってすごく生々しくっておもしろいですよ。ロボット食えたらめちゃめちゃおもろいよ。どうせなら、人間そっくりのアンドロイド作って食っちゃえばいいんですよ
ぼくは楽しみ以外で生きてないつもりなんです。こういう取材もおもしろいと思ってやってるわけでしょ。ぼくらがロボットを作る理由は人っておもしろいなあと思って、人らしいもの生き物らしいもの作りたいなあって思ってやってる
でもおもしろいって思わへん? いや、食べれるロボット絶対おもしろいよ……これ記事になるかな?
でもね、ロボットが食べれるようになったらすごく生物的な感じがするはずだよ。だってロボットの目的って生物じゃん。生き物っぽくしようってやってたわけでしょ。生き物のひとつの定義は食えるってことだからね。だから食べれるロボット作ったら急に生モノっぽくなる
だって食べてみたいと思わない? ロボット。食べてみたいでしょ。お菓子やったら最高やん。ロボットの踊り食いみたいなんできる
もちろん動力源も食べられる。たとえば草食べて成長するようなロボットができるかもしれない。現にハエを食べて酵素で分解してエネルギーで動くロボットがイギリスで開発されているんです
じゃあ、まず食べられるロボット。食用ロボット。食べられるロボットっていうのはできることはできるんです。金属でロボット作らないといけないというルールはないので。だから食べられるものを部品にして動くロボットを作る
食に関するロボットってね、ごはんを作るロボット、ごはんを食べて味がわかるロボット、食べられるロボットって3通りあるんですよ
このお店の子たちはがんばってるし、潰れるとは思わないけど。大々的に宣伝してください。これで売上があがらんかったらえらいことですよ
でもぼくの行く店は大体つぶれるんです。だいたいぼくが行くところって人っけが少なくて料理はうまいけど経営者が気難しいとか、そういうところと妙に気が合うので。行ってるうちにだんだん客がいなくなり、やっぱりつぶれたか……と
孤独の先に浪漫があり、浪漫の先に夢がある
タバコをやめて三ヶ月、最近小学生の頃の感覚が戻ってきた
哲 学 ウィトゲンシュタイン、「私」は消去できるか?本当に消去してしまえる気分になる。というか、もともと無い私に気づく
本当の寂しさというのは、頭の中から自分のイメージが消え去っていくこと。そのときには、当然人のイメージも消え去っている。そうして、頭の中をのぞく自分以外がこの世から無くなってしまうとき、本当の寂しさが襲ってくるんだと思う
技術 役に立つための技術開発は終わりつつあり、人や人間社会を知るための技術開発が浸透し始めている....
孤独より孤独なのは、その宙に浮いた心臓が小さくなって消えて行くように感じる時だろう
人間とは何かはわからないけれども、漠然とわからないのではなく、人間がどれだけ複雑か、どれだけ神秘的かが研究の中で少しずつわかるようになってきている、という感覚があります
不気味ですよね。でもあなたがこれを人だと認めているから不気味なんですよ
中途半端なものを作ったらバカにされるだけ。やるからには迫力あるものを出して、くだらない議論を飛び越えたところで認めてもらう以外にない
十分な理由づけができれば、一気にいきます。中途半端にやるのが一番よくない。というのは、アンドロイドのときにも思いました
昨年の事業仕分けで、二番ではいけないのか、という発言がありましたが、そんなのダメに決まってます。一番をとる以外は研究じゃない。そこがわかってない人に税金を割り振られる国では、いろいろ気をつけなければいけないんです
恐らくクローン人間のような存在は、今の社会では受け入れられないだろう。でも、人間や心の定義ってどんどん変わっていっていて、クローン人 間が人権を持ち、差別なく受け入れられることも可能性としてあると思います
それでも、やっぱりアンドロイドは機械で人間とは違うじゃないか、と人は思うわけです。では、機械と人間の最も大きな違いはなんなのか
鷲田(清一)先生は臨床哲学で、僕はアンドロイド。でも実はおんなじことをやっている。「ひとってなにか」「生きるってどういうことか」っていうのを、違うフィールドでおんなじようにやっているっていうことがよくわかる本。要するに、研究には分野なんてないんだってことがよくわかる
ジェミノイドは、人よりも人間らしく死にます
けしからん事に誰もジェミノイドを送り込んだ会議に出張費を払ってくれない。生身の私が来ないとダメだというけど、今まで私に脳があるか、内臓があるかなんて確かめた事ないじゃないか
服装は他人が最も認識しやすいアイデンティティじゃないですか。それを変えようとする理由がわからん
我々と自分の体とのつながりなんて、わずかなものです。呼吸したり歩いたりしていても、体が勝手にやってくれているのを時々確認してるだけじゃないですか。そんなもの機械に置き換えられるに決まってます
倫理などと口にする科学者は本物じゃないと思います
女性アンドロイドと対話する被験者の目の動きを調べると、人を見たときとアンドロイドを見たときの目の動きはいっしょだった。無意識にはアンドロイドを人間と同じように捉えていたということです
自分の命より軽い研究をやっている奴なんて信用できないでしょ。そんな人が歴史に名を残すような研究はできません。というと、他の先生には「きつすぎる」と言われますけどね
自分の人生や人間としての生きる目的をいろんな場面で考えたときに、やはり人間は人間を知るために生きているんだと感じる。そして研究者というのは、非常に素直にその目的に向かえる職業だと実感したとき、研究者になってよかったと思える
(不気味の谷の)もう一番深い所は超えました
私は人間としての最低限の形も追求したい。ミニマルデザインの「ジェミノイドM」です。目は動きますが、顔の造作はごくシンプルなもの
テレノイドは、外見的には目などの対話に必要なものだけを残して、あとは削り落としているんです。でも、人間らしさを感じるでしょう。人は、これだけの見かけがあれば人間らしいと思うんですよ
人とは何か。心とは何か。そこに 一切の折り合いをつけないっていうのが研究者として一番大事なこと
女性アンドロイドを1.5mほど離れた状態で2秒だけ見せる実験をしました。動きのない状態のアンドロイドでは8割の人が人間ではないと気づきましたが、自然な目の動きと体の動きがあるアンドロイドを見せると、7割の人が人間だと答えました
アンドロイドには無意識に人間を感じる。意識すれば違いがわかるけど、短時間では人間と区別がつかない。それがアンドロイドの迫力であり、おもしろいところです
人間とは何か?なぜこの世に生きながらえるか。生きるということは、身をゆだねるということ