自分の死ぬ日が分からないというのが、仏の罰か、慈悲か、不問のところが、やはり仏の慈悲なのであろうか
瀬戸内寂聴
ただ善を行うことに心を一つにし、死か生か短命か長命かといったことに関しては、我が身を修めて天命を待つだけだ
王陽明
恐怖の克服がないと世界平和はないのか? しかし恐怖の克服とは生の否定に繋がりはしないのか? 生きる意欲と共に死んでいるという事、武士道に通する境地なのかもね
紀里谷和明
自分の命よりも尊いものを握りしめる、抱きかかえるというのは、子供や孫しかないわけでしょう?
吉川幸枝
自らが自分の身を不死にすることができないでいて、どうして王を長生きさせることができようか
韓非子
騙される能力が残されているということは、何かの恩寵ではないでしょうか
瀬戸内寂聴(夫婦)
自分は百二十まで生きようと思っていたのに不思議だなあ、と思いながら死んでいくのも、いいのではないでしょうか
瀬戸内寂聴(人生)
この世の苦労は来世でよりよい生活をするための修行だと思えば、耐えることができるはず
生きるということは、その存在が誰かの役に立っていることではないだろうか
欲望を無くそうとする欲こそ、もっとも大きい欲だということに何故気づかんのか
中村天風
人に忘却という能力を与えられたのは、神の恩龍であろうか、業罰であろうか
他人が何と言おうと、死を求めることなく、死から逃げることなく、牢に入っては牢で出来ることをし、牢を出てはそこで出来ることをするだけだ
吉田松陰
法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか
神は人間に耐えきれない苦しみを与えはしないと言うから、九分九厘まで耐えれば、あとの一厘で希望や夢は達成されるように人生は出来ているかもしれない
鈴木健二
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