アーティストの名言集
怒鳴っているところはほとんどアドリブですね。日本人しかわからないだろうというせりふは、なるべく多用させてもらいました。なので、英語の字幕は大変だろうと思いますね
西田敏行
皆、僕がアドリブを入れるタイプの俳優だということがだんだんわかってきたらしくて、ブリタニーとかも僕のアドリブに対する切り返しができるようになってきていましたよ。ちゃんと日本の撮影スタイルにも慣れろよ、みたいなね(笑)
最初のころは「何言ってんだ、このやろう」みたいな捨てゼリフをアドリブで言っていたんですが、そのつど、監督が今何ていったんですか?って質問されてしまって、そのセリフをどこにどう入れ込むか、1時間半くらい話し合いが始まっちゃうんですよ。だから途中から余計なことは言わない方がいいと思い始めました(笑)
ブリタニーがいない撮影のときは、まるで日本の映画を撮っているみたいでした。ただ、「アクション!」の掛け声を聞いたときは「あ!ハリウッドやぁ~」と思いましたね(笑)
ロバート・アラン・アッカーマン監督とお話をしたときに、「あなた以外考えられない」と言われました。そのとき「これはオーディションではないんですね?」って確認したんです(笑)。そしたらこの役だけは決まったんだって言われました
その口説き文句に即答でしたね
意思の疎通は問題なかったです。奈良橋陽子さんという方が通訳になってくれたんですが、彼女とはテレビドラマ「西遊記」で僕が猪八戒を演じたころからの付き合いなんです。ブリタニーと話し始めると、陽子さんが来てくれて、何となしに通訳になってくれたんですよ
芝居とはいえ、だんだんかわいそうになってきちゃったんですけど、心を鬼にして演じました。撮影じゃないときにお互い「こいつはいいやつだ」というのがわかっていて、信頼関係ができていたので大丈夫でしたね
みなさんがイメージする、典型的なラーメン屋のオヤジを演じさせていただきました
ハグしちゃうとか、おでことおでこで会話しちゃうとかね
私も三國さんの後をやるのは緊張します。いっしょに新しいものを作りましょうね
三國さんは経営者としての風格を大事にしていて、普段の衣装もファッショナブル。それが、(釣りで)Tシャツを着るとかわいくなるんですが、風格があった。僕はそのへん、ちょっと庶民的というか、ダウンしています。『俺は土建屋だぞ!たたき上げだぞ!』という、現場の空気を出したいと思います
僕の中では、映画が終わった時点で全部サヨナラしたつもりだったんですが…。5年間ずっと言われ続けると、何となくやってもいいのかな、という気持ちになってきまして
映画の『釣りバカ日誌』が終わってしばらくして、近所の居酒屋とかに行くとね。おやっさんが、ちょんと僕の肩をたたいて、『もう、釣りバカやらないの?』と、しょっちゅう言ってきてね。タクシーに乗っても、(運転手から)『釣りバカやらないんですか?』って言われるんだよ
鈴木建設取締役社長、鈴木一之助に“昇進”致しました。どうぞよろしくお願い致します。22年の間、浜崎伝助を生きて参りましたけれど、今年から鈴木一之助を生き抜いてみたいと考えています。いろいろな考えを持っての作品への参加でしたけれど、素晴らしい若い才能たちに囲まれて、幸せな仕事をさせていただいています
役者というアンダーシャツを着て、役者というセーターを着て、役者というコートも着ている感覚なんです。何枚脱いでも、まだ役者という服を着ていますよ、みたいなね。もっと言えば、裸になっても役者という肌がある、そんな確信を持ちたいんです
笑いを取るということ、さらには(ワザとやったことを)見破られないことの難しさを自分のなかで学習したような気がします
動物には動物の距離感があるように、人間同士がうまくやっていける距離感を、僕ら団塊の世代はすし詰め教室で学びました
被災地に行ったら歌ってくれって言われて、アカペラで『もしもピアノが弾けたなら』を歌ったら、皆さんが聴き入ってくださる。歌っていうのは、力を持っているんだなと思いました
アッカーマン監督独特の撮影方法っていうのがあって、とにかくカット割りをしないで引きの映像と寄りの映像を撮るんです。あとは編集で作っていくので、どの映像が使われるかわからないんですよ
変な雰囲気ではなく、もっとシンプルに自分の気持ちを表現できる人間であれば、きっとほかの人も自分を理解してくれて、楽しい人生を送れるんではないかと思います
いろんな人間に接して生きていくと思うんですが、その瞬間に「あ、この人はどういう人で何を考えている んだろう?」ということが一目でわかるような人間でありたいと思いますね
私が5歳のときに実父が亡くなって、それから養父母に育てられたんです。その養父が公務員でしたけど、無類の映画好きでしてね。週末になると映画館に連れていってくれたもので、私も小学校5年生ぐらいには、将来は俳優になろうと考えていました
浜崎伝助のような勝手な男を、よくぞ受け入れてかわいがってくださいました。スーさんは社会の象徴なんです
日本人特有の、喜んでいるのか悲しんでいるのかわからないという無表情さを出したかったんです。その方がアメリカの女の子が、日本人のメンタリティーを知っていく上でいいんじゃないかということで役作りをしていきました
ハマちゃんとは22年間一緒に暮らしていて本当に楽しかったです。ハマちゃんを演じている間は、倒れたり病気になったりすることがなかったということを、僕の中で一つの誇りにしています
心のどこかに、表現媒体として、舞台は自分のフランチャイズだという気持ちは常にあります。ある種の郷愁と、自分の表現力がここで磨かれたんだという思いですかね。そして、舞台に準じてクリエイティブな気持ちにさせられるのは、映画かもしれないですね
「あなたは日本を代表する素晴らしい俳優なんだから、もっともっとあなたのことを世界に知ってもらいたいの」と言われました。それを聞いたとき、うれしくて「OK!」なんて返事をしたんです(笑)
俳優の権利の一つひとつが、ちゃんと自分たちの胸に収まる状況に早くなってほしいですね。そうなることで、俳優も俳優としての誇りを持って仕事ができるし、芝居の表現力を豊かにしていけるんじゃないかと思っています
子育ては人生の最大の恵み
アグネスチャン