母は、ほとんど家にいなかった。どこでどういう仕事をしていたのか知らない。たまに帰ってくるときには、酔っぱらっていた
冨永愛
(なぜ当時の写真は採用されなかったのでしょう)独り善がりだったんでしょうね。雰囲気に飲まれるというか、特に自分の金を使って行っているんで、「必死だ」という気持ちばかりが強くなって空回りしていた
宮嶋茂樹
この業界は、やりたいと言わないと盗られるぞ」と。聞いた瞬間は、ぶっ飛ばしてやりたいと思いました。でもその忠告のおかげで、僕も変わることができ、数々の仕事を得てきました
鈴木おさむ
外国語が読めても外国人のことはわからない。外国語が話せても、わからない。外国に住んでも、わからない。外国人を知るには文学によるしかない。それも一流の文学ではなく、二流の文学である
開高健
内閣からもつまはじきにされ、国民からも恨まれるかもしれない。朝鮮人やロシア人から憎まれるかもしれないが、良い子になろうなどと思うと、間違いが起こる。天下皆、お前さんの敵になっても、氷川のじいさんは、お前さんの味方だと思っていなさいよ
勝海舟
人が何と言おうが、自分じゃ不良とは思っていなかったね。友達が 何人か集まってワーワーやるのが楽しいわけで、自分じゃ、健康的で、模範的な学生だと思っていた
石原裕次郎
自分に協調性がないから、普通に暮らしていけるかどうかという意識があって、自分に劣等感があったわけでしょう。兄たちも、母に「こんなに甘やかして育てちゃったら、とんでもないよ」なんて言う。そういうのを聞いて育ったものだから、自分が絶対に駄目な人間だと思っていた。
坂東玉三郎
やっていることが私なんです、とお答えするのが一番確実なのかもしれない。それで、そのときどき偶然に見えるものが事実だと思うんですね。だ から、昨日言ったことが本当か、今日言ったことが本当か、じゃなくて、どちらも本当なんです
僕がザ・テンプターズのボーカルとしてデビューしたのは1966年、16歳の時だった。あの頃は、いいことも悪いことも純にやっていたよ。それがプロデビューすると、だんだんと何か違うふうになってくる。とにかく忙しくて、プロダクションに言われるままに歌っているだけで自分の意志なんてまったくなかった
萩原健一
戦時中のことはまるで覚えていません。終戦を迎えたときはまだ2歳
桂文枝
結婚した当初、私は妻に料理のトレーニングをしていました。彼女は素晴らしい女性でしたが、彼女の母は、彼女に料理を教えたことがなかったのです。彼女の家庭には、いつも雇われた料理人がいたのですね
カーネルサンダース
なぜ引退しないのですかと聞かれたら、私はこう答える。「錆びつくより、擦り切れる方がましだ」。じっとしていて錆びつくより、身を粉にしている方が好きなんだ
私は実業団時代に選手として、存在価値を認めてもらえなかった。その悔しさをバネに、原という男に仕事をさせたら、ちゃんとやると証明したかった
原晋
お金がないことを、そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、なぜ世の中の人は気づかないのだろう。「武士は食わねど高楊枝」という気概はどこへ消えたのか。うちは貧乏だったけれど、母親は商店街で投げ売りをしているような店には、絶対に並ばなかった。どんなに遠い店でも、1円のお客を大切に扱う店に通っていた
ビートたけし
そんなことちらりとも頭をよぎらない。そうだろう?しかし誘拐されるときはちゃんと誘拐されるんだよ。それはなんと言えばいいか、超現実的な感覚を伴うものだ
村上春樹
本来は古風な簿記係の私は、数字は会社の骨格のようなものだと考えていた。数字の相互関係は、本の行間を読むようなものだった。私は会社のだいたいの健康状態と、実績をあげている部門と、問題の所在に見当がついた
ハロルド・ジェニーン
幼いころから、私は不必要なステップを省略するのが大好きだった。だから、私が卸売業者の排除を基本とする会社を設立したのも、当然といえば当然だと思う
マイケル・デル
私は正規の教育を受けられなかった。学歴はゼロなんです。だから、発明家とし て成功したのでしょう
エジソン
事業を始めるとき、金儲けをしようという気持ちはなかった。何か世の中を明るくする仕事は無いかと、そればかり考えていた。即席めんの発想にたどり着くには、48年間の人生が必要だった
安藤百福
生きていれば、失敗することは山ほどあるんです。ちょっと違うかもしれないけれど、俺たちは、今を生きるしかないんです。でも、ついつい先を見ちゃったり、すんだことを考えゃったりするんですよ
斎藤一人
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