萩原健一の名言集
『傷だらけの天使』はやらなくちゃいけないみたいです。市川森一さんの意気込みがすごいからね
萩原健一
僕たちの頃はウッドストックがあったりして、デカダンでクラッシュすることが美しいみたいな時代で、今とは違うでしょ
小栗さんだけじゃなく、田中圭さん、柴本幸さん、やべきょうすけさんも、皆さんすごく誠実で真面目ですよね。僕が彼らくらいの年齢であれくらい誠実で真面目だったら、大富豪になっているかもしれないね
僕は仕事を再開すると、いつも『再デビュー』『ショーケン、カムバック』とか言われるけどね
今、新しい映画の脚本を書いているんだ。何かやりたいなら自分で動かないとね
毎日針の穴に糸を通すような職人気質というのは、理解できなくもないんです。自分にもそういう、こだわりだしたらキリがないという部分がありますのでね
私はどっちかというと怠け者で横着で、へそ曲がりなものですから…誤解も受けますし、仕事の依頼を受けてもなかなか腰が上がらないときもあります
僕が解散しようというと他のメンバーから解散したくないという声があがった。バンドを維持すれば給料を貰えるから我慢するという。まだ子供のくせにサラリーマン化しちゃってたんだ。でも僕は、そんな生き方は断じて嫌だったんだよね
お金が欲しくてやりだしたわけじゃあない。音楽を目指したきっかけは要するに女の子にもてたい、目立ちたいといった非常に低俗な動機、やめることは抵抗なかった
一度、僕が稼いだお金で母にお年玉をあげようとしたことがあったんだ。でも母は絶対に受け取ろうとしなかったね
うちは与野市で「魚新」という魚屋をやってたんだけど「とても恥ずかしい。商売に影響があるからやめてくれ」と(母に)泣かれたこともあった
グループサウンズのコスチュームにしても、ミリタリールックまでは許せたけれど、さすがに花のアップリケを胸につけた衣装は屈辱だった
僕がザ・テンプターズのボーカルとしてデビューしたのは1966年、16歳の時だった。あの頃は、いいことも悪いことも純にやっていたよ。それがプロデビューすると、だんだんと何か違うふうになってくる。とにかく忙しくて、プロダクションに言われるままに歌っているだけで自分の意志なんてまったくなかった
僕は50歳になるのが怖かったんだ。実際になった時には「僕もいよいよか」と焦った
団塊世代よ、脱皮して新しい50代を楽しもうぜ
難しかった問題というのが、僕の頭の中でね、難しくしていただけであって、 行動に移すと意外に簡単だったよ
犯罪ってのはさ、僕なんかも思うけれど、絶対許すことはできないだろうけど、その犯人を生んだ社会ってのにも問題があるでしょ
細かく注文されたら細かく芝居をしてます、ということでなくて、自然体の中でそういう風にできれば最高だと思う
何かいいとこ見せようなんていうさ、安っぽい気持ちがなくなっただけいいね
僕のファンの方っていうのは若い方でもね、お行儀がいいよ
僕ら、ロックという嫌われてる音楽やってるのかもしれないけれど、それによって税金を払っていたりしてるんだから、一概にうるさいとかね、できないんじゃないの
人気というのは、アテにしちゃいけないということだな。人間は努力したことしか戻ってこない
黒澤明、深作欣二、神代辰巳、テンプターズの田中俊夫と大口広司、柳ジョージ、『傷だらけの天使』のスクリプトを書いた市川森一……オレの周りの連中はみんな逝ってしまいました。でも死なんて、メイビー、無になることでしょ。死の世界はホワイト。真っ暗じゃなくて真っ白って感じ。何も残らない。オレにはそれで充分ですよ
もう自分をだませない。カッコつけて生きたくなんかないんですよ
金剛峯寺というか、真言宗側は僕に対してとってもジェントリーですよ。とってもソフトでね。一歩、譲ってくれてます
空海との縁でいうと、20年ほど前に四国88カ所を巡礼しているんです。あのときは66番札所の雲辺寺、毘沙門天の前ですごい達成感を覚えてね。オリエンタルなものを直観した。空海を演じる前に、あの感覚を再確認するため、もう一回88カ所を巡ったんです
演技なんて、シックスセンスだよね
オレの人生は壮大な無駄使いでした
オレはフリー、自由でありたいんです
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