俳優の名言集
桃李くんは(エンディングテーマを担当した)辻井伸行さんと同い年なんです。この世代には才たけている人が多いなと思いました。役者を地層に例えると、桃李くんの世代から新しい層に変わっていく気がします
西田敏行
こんな時代ですから、何にも考えずに三谷さんの世界に浸って心を動かしていただいて、気持ちを豊かにしていただけたらうれしいです
どうにかして笑わそうと思ったんだけど、手ごわかったなあ。笑いをこらえている中井さんの顔がなんともチャーミングでした(笑)
僕は重量感もありますからね(笑)
撮影が終わってカツラを外すと頭から湯気が出ているんですけど、とても心地良い解放感があって、撮影後のビールはうまかった!
落ち武者の格好って夏だとキツイし暑いんですけど、全然苦じゃなかったです
「上杉謙信と同い年です!」というセリフだけで、ワクワクしました。謙信と友人だったなら、「謙ちゃん!六ちゃん!」って呼び合っていたのかな?とか、想像するだけで楽しい
六兵衛は、とにかく楽しい役でしたね。フィクションの役はどんなうそでもつけるから、イメージを膨らますことができるんです
僕は、三谷さんの世界観が大好きなんです。現場にいるだけで、いろんな楽しいアトラクションがあるテーマパークを、グルグル回っている少年のような気持ちになるんですよ。役者としての魂を躍らせてくれる監督なので、今回もすごく楽しみでした
20年前に阪神大震災が起きました。4年前が東日本大震災です。その間にも、新潟や鳥取、いろんなところで大きな地震が起きています。日本全国どこに住んでいてもひとごとではありません
「車は左、人は右。それで本当に良いのか」と先生は尋ねました。「心臓は左にある。心臓が車に近くならないよう、左を歩いた方が安全だ」と言うのです。私は「人は右」というルールにそれまで何の疑問も持ちませんでした。難しい言葉で言えば、既成概念を打破することに未来があるのではありませんか
ハワイアンズのある福島県いわき市と、事故を起こした原発との間にある広野町に今春、「ふたば未来学園」という県立高校が新設されます。応募が募集定員を上回ったことを知った県教育委員会は定員を増やしたそうですね。私は縁あって、この学園の応援団の一員になっています
自ら立ち直る人たちもいます。私にとっては「常磐ハワイアンセンター」と呼んだ方がしっくり来るのですが、スパリゾートハワイアンズのフラガールのみなさんは震災後、全国キャラバンをやってお客さんを呼び戻しましたよね。つらい時期に、よくがんばってくれたと思います
故郷にはかつて、「前の戦争ではえらい目にあった」と、太平洋戦争ではなくて戊辰戦争のことを指して言うお年寄りがいました。2年前の大河ドラマ「八重の桜」で私が演じた会津藩家老の西郷頼母(たのも)も、そうした「えらい目」にあった一人です
「死体ではない。ご遺体なんですよ」というセリフも強調しました。小さいころ、親戚の通夜で、母親がずっと遺体に語りかけていた様子を思い出したからです
本当の仮安置所では破傷風の危険もあるので裸足はダメらしいのですが、演技とはいえ遺体の枕元を土足でずかずか歩いて良いのかと思い、靴を脱いで裸足になりました
「震災を体験していない人たちに見て欲しい」という使命感で引き受けたのですが、撮影に入ってからも悩み続けました
出演依頼に最初は「人の 命は厳粛なもの。そんなことを商業映画にしていいのか」と疑問を持ちました
まずは、子どもと同じ夢を持ってみてください。子どもは夢に向かって歩き出すわけだから、親も親なりの努力をしなければいけない。そのときには、子どもと同じ立場で肩を組んで歩くんじゃなくて、親は一歩下がって、子どもの行く末を見てやるということが大事ではないか
子どもが夢を持って語るとき、大人は『自分の子どもがとんでもないことを言っている』と思うだろう。それで良い。でも、そのときには、きちんと子どもの目を見て話してほしい 。メールや手紙で話すのではだめ。子どもの目がきらきらしていて、親の勘で『やれるかもしれない』と思える目だと感じたら、受け止めてあげてください。100個考えて無理だと思っても、101個目に何かあるかもしれないと思ってください
生活するために、飯を食うために何とかする―というのではなくて、『そんなことしたら生活はできないよ』と言われるぐらいの大きな夢を持っていい。ぼくは、お金は後からついてくると言ってあげたい。何を言われても夢を捨てないことだ
何事でも最初に持っていた熱い思いを忘れずに、きちんと自分の中で実現していくことが大事だ
自分の道と同じ道を歩んできた先輩の後ろ姿を見つめつつ、その轍(わだち)というか、トレースを自分の中でも追っ掛けられるように、同じ歩幅で歩いてみる
負けそうになったり、折れそうになったりしたときは、先輩のすごい舞台や映画を見たりすることで『あっちにいけば間違いない』という思いを強くした
演劇にふさわしい才能があるのかと、いつも自問自答していた
応援団の話は小泉進次郎復興政務官からいただき、『政府の中でも福島復興に積極的で、しっかり福島を見てくださっている』と感じて、心地よく受け入れることができた
歌は私にとって前面に出るものではなく、演劇というカテゴリーの中の表現の一つだ
役者という仕事を生業(なりわい)としている以上、自分のいろいろな表現をみんなに見てもらい、感じてもらうことがぼくの唯一できる最大限の応援、支援だと思っている
『釣りバカ日誌』などでお世話になった県内のロケ地の自然は本当に美しく、その自然が原発事故に遭ったことは罪が重いぞ―という気持ちがあった
『自分の親、祖父母の世代は戦後、日本を焼け野原から立ち直らせたんだ』と自分に言い聞かせて、復興支援のモチベーションを保った
とんでもないことになった、完膚なきまでにやられた、何をすれば復興になるのだろうか―とまで考えた
撮影がすべて終了したときに、ブリタニーから熱い抱擁と「わたしはあなたに会っていろいろな意味で刺激をもらって勉強になった。あなたに会えて良かった」という温かいメッセージをもらいました。ブリタニーが涙を流しながら言ってくれたので、僕もぽろっと泣いてしまいましたね
僕もラストシーンでアビーと心が通じ合ったところですね。お互い言葉は通じなくても、目を 見れば何を言っているかわかるんです。あのシーンは映画の中だけじゃなく、まさにブリタニーと僕自身にもリンクしていたシーンだったんです
言葉が通じなくて、お互いなかなか理解し合えないけど、だからこそわかり合えたときの感動はひとしおだと思うんです。そこがうまく表現できていたと感じました
怒鳴っているところはほとんどアドリブですね。日本人しかわからないだろうというせりふは、なるべく多用させてもらいました。なので、英語の字幕は大変だろうと思いますね
皆、僕がアドリブを入れるタイプの俳優だということがだんだんわかってきたらしくて、ブリタニーとかも僕のアドリブに対する切り返しができるようになってきていましたよ。ちゃんと日本の撮影スタイルにも慣れろよ、みたいなね(笑)
最初のころは「何言ってんだ、このやろう」みたいな捨てゼリフをアドリブで言っていたんですが、そのつど、監督が今何ていったんですか?って質問されてしまって、そのセリフをどこにどう入れ込むか、1時間半くらい話し合いが始まっちゃうんですよ。だから途中から余計なことは言わない方がいいと思い始めました(笑)
ブリタニーがいない撮影のときは、まるで日本の映画を撮っているみたいでした。ただ、「アクション!」の掛け声を聞いたときは「あ!ハリウッドやぁ~」と思いましたね(笑)
ロバート・アラン・アッカーマン監督とお話をしたときに、「あなた以外考えられない」と言われました。そのとき「これはオーディションではないんですね?」って確認したんです(笑)。そしたらこの役だけは決まったんだって言われました
その口説き文句に即答でしたね
意思の疎通は問題なかったです。奈良橋陽子さんという方が通訳になってくれたんですが、彼女とはテレビドラマ「西遊記」で僕が猪八戒を演じたころからの付き合いなんです。ブリタニーと話し始めると、陽子さんが来てくれて、何となしに通訳になってくれたんですよ
芝居とはいえ、だんだんかわいそうになってきちゃったんですけど、心を鬼にして演じました。撮影じゃないときにお互い「こいつはいいやつだ」というのがわかっていて、信頼関係ができていたので大丈夫でしたね
みなさんがイメージする、典型的なラーメン屋のオヤジを演じさせていただきました
ハ グしちゃうとか、おでことおでこで会話しちゃうとかね
私も三國さんの後をやるのは緊張します。いっしょに新しいものを作りましょうね
三國さんは経営者としての風格を大事にしていて、普段の衣装もファッショナブル。それが、(釣りで)Tシャツを着るとかわいくなるんですが、風格があった。僕はそのへん、ちょっと庶民的というか、ダウンしています。『俺は土建屋だぞ!たたき上げだぞ!』という、現場の空気を出したいと思います
僕の中では、映画が終わった時点で全部サヨナラしたつもりだったんですが…。5年間ずっと言われ続けると、何となくやってもいいのかな、という気持ちになってきまして
映画の『釣りバカ日誌』が終わってしばらくして、近所の居酒屋とかに行くとね。おやっさんが、ちょんと僕の肩をたたいて、『もう、釣りバカやらないの?』と、しょっちゅう言ってきてね。タクシーに 乗っても、(運転手から)『釣りバカやらないんですか?』って言われるんだよ
鈴木建設取締役社長、鈴木一之助に“昇進”致しました。どうぞよろしくお願い致します。22年の間、浜崎伝助を生きて参りましたけれど、今年から鈴木一之助を生き抜いてみたいと考えています。いろいろな考えを持っての作品への参加でしたけれど、素晴らしい若い才能たちに囲まれて、幸せな仕事をさせていただいています
役者というアンダーシャツを着て、役者というセーターを着て、役者というコートも着ている感覚なんです。何枚脱いでも、 まだ役者という服を着ていますよ、みたいなね。もっと言えば、裸になっても役者という肌がある、そんな確信を持ちたいんです
笑いを取るということ、さらには(ワザとやったことを)見破られないことの難しさを自分のなかで学習したような気がします
動物には動物の距離感があるように、人間同士がうまくやっていける距離感を、僕ら団塊の世代はすし詰め教室で学びました
西田 敏行
被災地に行ったら歌ってくれって言われて、アカペラで『もしもピアノが弾けたなら』を歌ったら、皆さんが聴き入ってくださる。歌っていうのは、力を持っているんだなと思いました
アッカーマン監督独特の撮影方法っていうのがあって、とにかくカット割りをしないで引きの映像と寄りの映像を撮るんです。あとは編集で作っていくので、どの映像が使われるかわからないんですよ
変な雰囲気ではなく、もっとシンプルに自分の気持ちを表現できる人間であれば、きっとほかの人も自分を理解してくれて、楽しい人生を送れるんではないかと思います
いろんな人間に接して生きていくと思うんですが、その瞬間に「あ、この人はどういう人で何を考えているんだろう?」ということが一目でわかるような人間でありたいと思いますね
私が5歳のときに実父が亡くなって、それから養父母に育てられたんです。その養父が公務員でしたけど、無類の映画好きでしてね。週末になると映画館に連れていってくれたもので、私も小学校5年生ぐらいには、将来は俳優になろうと考えていました
浜崎伝助のような勝手な男を、よくぞ受け入れてかわいがってくださいました。スーさんは社会の象徴なんです
日本人特有の、喜んでいるのか悲しんでいるのかわからないという無表情さを出したかったんです。その方がアメリカの女の子が、日本人のメンタリティーを知っていく上でいいんじゃないかということで役作りをしていきました
ハマちゃんとは22年間一緒に暮らしていて本当に楽しかったです。ハマちゃんを演じている間は、倒れたり病気になったりすることがなかったということを、僕の中で一つの誇りにしています
心のどこかに、表現媒体として、舞台は自分のフランチャイズだという気持ちは常にあります。ある種の郷愁と、自分の表現力がここで磨かれたんだという思いですかね。そして、舞台に準じてクリエイティブな気持ちにさせられるのは、映画かもしれないですね
「あなたは日本を代表する素晴らしい俳優なんだから、もっともっとあなたのことを世界に知ってもらいたいの」と言われました。それを聞いたとき、うれしくて「OK!」なんて返事をしたんです(笑)
俳優の権利の一つひとつが、ちゃんと自分たちの胸に収まる状況に早くなってほしいですね。そうなることで、俳優も俳 優としての誇りを持って仕事ができるし、芝居の表現力を豊かにしていけるんじゃないかと思っています
談志か認めてくれなくて何の為の真打か
立川談春
古典落語には冬の噺に名作が多いと云われている
談志は所属している落語協会の旧態依然としたあり方に疑問を持ち続けていた
落語家の前座はどんなに生活が苦しくてもアルバイトは許されない
落語って、常にその時代が求めてる正解の間とかテンポがある
最善を尽くしたかどうかは、自分で分かりますよね
学ぶ楽しさ、師に誉められる喜びを知ることが第一歩
(立川談志さんについて)神様に選ばれたのかどうかは分からないまでも、あそこまで落語が好きで、あそこまで落語と添い寝してるのを見せられるとしょうがない
超一流の人ってご多分に漏れず闘争心がすごい
負ける喧嘩はするなが我が家の家訓
目先のことに流されるのはラク。うろたえて悩むだけでも1日は終わる。でも行動を起こさなければ何も手に入らない
無駄な努力をしてください。100個見つけたら1個ぐらい手応えあるでしょう
よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要
談志を喜ばす知恵を絞れない弟子は、それはやっぱり罪だ
(弟子を育てることについて)良いのが育てば自分のライバルを作ってるようなもの
(談志さんについて)弟子が自分に対して刺激となる芸や理論、そこまでいかなくても、せめて情報だけでもいいから発信してこないかと望んでいるフシすらある
博打の才能はいくら儲けたかではなく、いくら買えたかだと思っている
落語家である以上、落語ができなければお話にならない。当たり前の話だが落語ができれば、それで良しというものでもない
近頃の落語家を目指す若者の親なんていうのは信じられないような甘ちゃんで、子どもより先に親を修業させた方がいいんじゃないかと思う
本当は競輪選手になりたかった
(立川談志さんは)褒める時は褒める
(志らくさんについて)同じ談志の弟子で同世代、キャリアも同じくらいなら、いつかはきっと勝負する時が来る
悩み続けて何もしないまま人生を終えるより、『あれもダメだし、これもダメだったけれど色々やれたから、まあいいか』と思いながら死にたい
弟子の奥にいる親の顔も見えてくる
競艇選手になるという夢が叶わず行く道を閉ざされて、結構マジで落ち込んだ僕は高校で落研をつくり、人前で話す楽しみを覚えた
落語家になるにはどうしても弟子になるより手がない
談志は揺らぐ人だから試験の基準が毎回変わるんで、どうしていいか分かりません
覚悟を決めて云うなら、オレが見返してやりたいのは立川談志、オレより先に志らくを真打 にした立川談志にけじめをとらなければ、オレはスタートラインに立つことも、そこから一歩も先に進むことはできない
落語家になった、談志の弟子になれたということで満足している奴らばかり
全部聞いて覚える
落語という芸能に対して、どう考えても己より立川談志の方が執念を持って努力している現実を、弟子たちが一番知っている
落語界の中で立川流は異質だって思われてる
僕たちが前座の頃、たとえどんなに腹が空いていようと、それを談志には悟られまいと務めた。弟子にしてもらっただけで御の字なのだから
教わったことを後に伝えていかなきゃいけない義務がある
うちの師匠はいち早く独立独歩、孤高の道を歩いてた。人一倍先見の明があった
やるなと云ってもやる奴はやる。やれと云ったところでやらん奴はやらん
うちの師匠の得意技は「ゆらぎ」
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