高校一年の頃、C級2組の順位戦で、最初7連勝し、あと3局の内1勝すれば昇級できるというところで連敗したのです。最終局もかなり厳しい状況になったのですが、やっとの思いで、勝ち切ることができました
谷川浩司
協調性ゼロといったほうがいいかもしれない。だから学校で困りました、協調性がないってことで(笑)
坂東玉三郎
そろそろ行かないと。訓練用遠心装置に入らないといけないんです
アームストロング船長
僕、24歳でデビューしてから給料が1、2万って時期が2年くらい続いたんです。東京の吉本のNSCの1期生だから2年目には後輩ができて、見えっ張りなのでキャッシングで借りて後輩にメシおごってた
品川祐
私、自分が 妊活で通院するまで、「子どもはいつ作るの?」とか「子どもはまだなの?」ということを平気で言っていたんです。こういった会話はとてもセンシティブなことなのだということを、自分が病院通いして初めて知りました
東尾理子
6~7歳の時ですが、ラスベガスに連れて行かれてそこでレビューショーを見たんです。~中略~ そこで見たマジックで衝撃を受けたんです。その時「あんなマジックを出来るようになりたい!」と思ったのがキッカケです
セロ (マジシャン)
小学2年生のときに、クラスメートがノートにタコを書いていて、飛び出てきそうな迫 力いっぱいのタコだったんです。その子が描いていなかったら、海の生き物に引かれていなかったです
さかなクン
(幼少時代)下手は下手なりに努力しましたよ。そうしたら、僕は野球では努力が報われるタイプだったみたいで次第に上手になっていきましたね
石井一久
5年前は、500m登るのもフーフー言って、途中で戻って来たりしていました。65才だし、もういいかなと思っていた
三浦雄一郎
結局ニューヨークには1年半くらいいたんですが、1年くらい過ぎてだんだん望郷の念もあったりして、「俺は何やってるんだろう」と思ったんですね。僕は31丁目にあるコンドミニアムに住んでいたんですが、その部屋の下にイーストリバーが流れていて、それを眺めながら「この川をずっといくと海に繋がって、その海は日本に繋がってるんだろうな」とか、ぼんやり考えていたんですよ
秋元康
頭の半分では起業への思いはありましたが、会社員になったからには社長を目指そうと思い込んで仕事していました。それが当然でしょう? だから、すぐ上の先輩社員はライバルと思って仲良くしませんでしたね。また、会社の悪口をいう人もたくさんいて、相当ケンカもしました
寺田和正
ぼくは9歳の時、脊髄腫瘍で車いすでの生活になりましたが、その前まで野球やバスケットボールをやっていました。実はテニスにはそれほど興味もなく、バスケットボール部だったことと漫画が流行っていて、車いすになってもバスケットボールをしようと思っていたのですが、家の近くにチームがなかったんです。そんなときにテニス好きの母が家の近くで車いすテニスのレッスンをやっていることを見つけてきて、なんとなく行ってみたのが始まりでした
国枝慎吾
(中学2年生でプロ棋士になった当時を振り返って)まだ、プロとしての実感があったとは思えません。ただ、一生将棋を指していけるという喜びは心に残っています
若い時は「俺も何日間か働けなかったらああ(ホームレスに)なる」って思うわけですよ。アパート代がいつか払えなくなったら、追い出されたら…って考えてた
福本伸行
私の場合、最初は、姉の真似をしてテニスをやりはじめただけでした。その頃は、「家族と一緒にテニスを楽しめたらいいな」「体を動かせて楽しいな」と思っていただけだったのです
上地結衣
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