若いころアルバイトで設計をやり、そのバイト料でヨーロッパに行って、いろいろな建築物を見て歩きました。1日15時間、50km近く歩いていましたね。歩いている間はずっと、直前に見た建築のことを考えているんです
安藤忠雄
私自身が、書いているとき、目の前に情景が浮かぶんです。ハリーのイメージが最初に思い浮かんだときもそうでした。不思議なことに、いつも紙とぺンを持っているのに、そのときだけは持っていなかったのです
jkローリング
僕は子供の頃に「大人になったらいろんなコツがわかって、もう悩むことなんてないんだろうな」と思っていた。でも自分が大人になると全くそんなことはないし、初めて体験することも多く戸惑ってばかりです
馬場俊英
夢を持っていたわけですねえ。だから自分で物を作ったりすることは非常に好きだったですねえ
南部陽一郎
6~7歳の時ですが、ラスベガスに連れて行かれてそこでレビューショーを見たんです。~中略~ そこで見たマジックで衝撃を受けたんです。その時「あんなマジックを出来るようになりたい!」と思ったのがキッカケです
セロ (マジシャン)
僕自身も、狂言師の宿命を背負って生きることに負の意識を抱くこともありました。宿命を力に変える部分で、杉の市と類似するものを感じます。私ももう立派な中高年ですが、杉の市の享年28の人生を生きてみて、己の生き方についても考えさせられましたね
野村萬斎
5年前は、500m登るのもフーフー言って、途中で戻って来たりしていました。65才だし、もういいかなと思っていた
三浦雄一郎
いま、企業で働く中高年には、夢をなくしていた頃の私とだぶる人が多いような気がします。会社の業績もいまいちで、何とはなくしょぼくれている。年齢的にも「もう限界」と挑戦を諦めているのではないでしょうか。でも、私がそうだったように、50歳、60歳からでも相当のことができるんです
MoMAでは2日間にわたって取材をしたんですけど、「ああ、ここが世界最高のアートセンターか」と。通るたびに、来館者のものすごい行列ができてて、「この状況すごいな、この行列すごいな、この動き方すごいな」っていうのを肌で感じました。そうやって帰国したんですけど、早く日本にもこういう環境ができればいいな、と思いました
木梨憲武
近年、いわゆる「本離れ」が進んでいると言われます。しかし、私が「本離れ」を感じることは、ほとんどありません。私の周囲にいる意識の高いビジネスパーソンはみな、いまでも多くの本を読み続けているからです
神田昌典
結局ニューヨークには1年半くらいいたんですが、1年くらい過ぎてだんだん望郷の念もあったりして、「俺は何やってるんだろう」と思ったんですね。僕は31丁目にあるコンドミニアムに住んでいたんですが、その部屋の下にイーストリバーが流れていて、それを眺めながら「この川をずっといくと海に繋がって、その海は日本に繋がってるんだろうな」とか、ぼんやり考えていたんですよ
秋元康
頭の半分では起業への思いはありましたが、会社員になったからには社長を目指そうと思い込んで仕事していました。それが当然でしょう? だから、すぐ上の先輩社員はライバルと思って仲良くしませんでしたね。また、会社の悪口をいう人もたくさんいて、相当ケンカもしました
寺田和正
ぼくは9歳の時、脊髄腫瘍で車いすでの生活になりましたが、その前まで野球やバスケットボールをやっていました。実はテニスにはそれほど興味もなく、バスケットボール部だったことと漫画が流行っていて、車いすになってもバスケットボールをしようと思っていたのですが、家の近くにチームがなかったんです。そんなときにテニス好きの母が家の近くで車いすテニスのレッスンをやっていることを見つけてきて、なんとなく行ってみたのが始まりでした
国枝慎吾
(大学時代はどんな学生だった?)爆発していた、という感じでした。ハーバード大には、強烈な個性を持つ学生や講師が世界中から集まるので、大学にいるだけで大きな影響を受け ました
モーリーロバートソン
スケートを通して何かに出会えたり、ボランティアをするチャンスをいただいて、石巻の子どもたちに出会えたりもしたんです。小さいことかもしれないけれど、それができるのは、私にスケートがあったから
安藤美姫
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