落語家の名言集
落語家が考えなければならないのは笑いの質
笑福亭松之助
素質と才能と運に恵まれてなかったら、この世界では生きていけない
お客さんと落語家の周波数が合わない時は、いくら焦ってもどうにもならない
草木は何の不足も言わずに自分を生きています。人間もこのように生きられたらと思う
1973年(昭和48年)3月。楽屋への階段に一歩乗せた時のことです。背後から長髪の高校生が立っていました。「何か用?」「弟子にしてください」「それはええけども、何で私の弟子に?」「あんたにはセンスがあるから」「ありがとう」と言って頭を下げてしまいました。初手から負けです※松之助師匠と明石家さんまさんの初対面時
(松之助師匠がさんまさんに驚いた事)局の中で彼が他人の楽屋に顔を間違えて出しましたが、そこで1時間喋って出て行った
好きなことだから打ち込める
悩む時苦しい時、親鸞聖人の「とても地獄は一定すみかぞかし」という言葉を思い出しています。ここが地獄だと思えば、地獄を勤めあげなければならないのです
落語は単に人を笑わせるものだといっても、それには技術、つまり芸を身につけねばなりません
私の本名「明石」を彼(さんまさん)の屋号にしたのです
私は今は楽悟家と自称しています
(明石家さんまさんが人気の理由)今、ここを真剣に生きているのが好感を得ているのだと思います
「落語は想像の芸だ」という人もありますが、「芸は描写」だという言葉を聞くと、お客さんの想像力を掻き立てる演技がいると思っています
偉そうにしていても人間は太陽や空気がなければ生きられません
(師匠が他界した為に)師匠とは、わずか二年と一か月の縁でした。しかし今も私は師匠の情熱を受け継いで落語に向かっています。五代目松鶴の落語を消してはならないという気持ちはいつも変わることなく溢れている
(入門してから師匠から)これは噺の基本やから、絶対に習うとかなあかんネタやと「東の旅」「軽業」までを教えてくれました
私が弟子入りを頼んだ時、師匠は「ご飯は食べられへんで」と言っていましたが、今日この歳になって考えてみると芸人としての謙虚な気持ちだったように思います
落語の世界で看板だと威張っていても、ドラマの仕事では「落語家の大看板」を捨てて、新人のつもりで周囲の人に接しなければなりません。つまり自分の役割、立場所を知っていれば、寸法の分かった人間ということになる
自分で選べないというのは、何かの力が運命として働いているとしか思えない
芸人になって酒でよく失敗しました
人間は天の恵みで生かされてる
生きることにどんな意味があるのか、そんな事は大自然に任せたらいい
酒の力で陽気にならなくても「生かされている」と知ったら陽気です
人と同じことしていたら芸人は売れることが少ない
食べ物は感謝して食べれば、何を食べても美味しいものです。戦争中に雑草を食べていたのですから
私は子どもの頃から手品に興味を惹かれていました
落語は一人でやるもの です。高座に上がったら自分が主役、誰も手伝ってくれません
落語家というのは「演芸場」で「笑い」をとるサービス業
落語は芸術ではないとハッキリ言っておきます
落語家の弟子になるという事は、その師匠に自分の全人生を託すのですから、師匠に心服してその指導に従う事が大切
自己満足だけでは落語家という稼業は務まらない
漫才というのは、そんな簡単なものではない
自分が生きていると思っていたら、辛い事、苦しい事、悩みがあると「なぜ生きねばならないか」という不逞な思いが出るのです。「生かされている」のなら、何があっても、それをそのまま受け取るしかありません
生まれ持っての素質と才能には勝てませんが、正しく努力すれば、お客さんの喜ぶ漫才はできる
私は遺言などはしません
私の酒の呑み方は、朝起きると一番にワンカップを一息に呑みます。すると活気が出て頭も冴えたような気がする
(戦争を経験して)一瞬の中に生と死が分かれる。これが運命か
学校では面白いことにかけては一番でした
好きな事をして死のう、そうせな損や
(芸人を志す理由の一つ)死んだ時に新聞の下に小さく名前が出る
(ご自身の父親について)他人に迷惑をかけることを嫌い、自由に生きた父親でした
落語を上手くやるってのは訳ないんだ、いかに下手にやるかが大変なんだ
立川談志
(師匠である柳家小さんのお葬式に出なかった理由)小さんは心の中に生きている
我が立川流は自己申告制です。真打になりたいと志らくが云ってきたので認めただけのことです。なりたい奴はなればいい。アタシの基準を満たせば、いつでも真打にしてやる
前座とは落語家になる為の修業中の身であって商品ではない
こいつが毎年ここで1万人を集める落語をやっているっていうから嘘だろうと思って来たら、まあ、これなら客も来るわな※立川志の輔さんの落語を観に来た時の言葉
現代においては命をかけて名誉を守るという精神は自明のことではなくなっている
人間なんて嘘という名の虚の中で生活している
矛盾に耐えることが修行
私は自分の事を二流だと思ってるんです。二流の定義っていうのは、物事を論理的に考えて、自己を外せない人間
落語とは人間の業の肯定である
自分は立川談志という心意気だけは持っていたい
嫌なこともやらされるのが人生の修行
千人の客に嫌われてもいいから、この一人の客に認められればいいんだ