教育者の名言集
灘校で教師をしていたころも、生徒に頭ごなしにあれこれ禁止するのではなく、「常に人の気持ちを考えなさい。腹が立って食って掛かりたくなっても、そうされたら相手がどう思うか、一瞬でも考えなさい」と指導していました。責任を伴った自由を与えることで、子どもの意欲や個性は伸びるのです
橋本武
遊ぶことがゆとりではありません。水準以上のことをやることで「ゆとり」が生まれます。そして、水準以上のことは「遊びの精神」でできるのです
物語を手がかりにして、「横道」に それていくということをやりました。「横道」にそれていくことが、子どもにとっては面白いのです
一方的に親の判断を押し付けるのではなく、子どもを対等な一人の人間としてとらえ、その思いや考えを尊重することが大切です。責任を伴った自由を与えることで、子どもの意欲や個性は伸びるのです
ただ言われたことを黙って受け入れるのではなくて、自分から積極的に求めていく。
自分から求めていく力がつけば、国語だけでなく、ほかの教科にもそれが及んでいきます。
生活態度はもとより、勉強に対する姿勢も自然と変わっていきます
自ら興味を持ち、自ら進んでいろいろとやりなさい
“遊ぶ”ことは何の役にも立たないかというと、そうではない。“遊ぶ”ことによって興味が広がったり、記憶する力が刺激されたりする
“遊ぶ”は、毎日しなければならないこと以外に、自分の心身をなぐさめ、楽しむ行為。“学ぶ”は、自分の目標となるような人を見つけ、その人のようになれるよう、その人の真似をしていく行為
「“まなぶ”も“あそぶ”も平仮名3文字で、“ぶ”で終わる」という声が上がります。見たままの感想ではないかと思われるかもしれませんが、それをあらためて確認することが大切です。そこからさらに発想を膨らませることができるからです
アンケート調査をしたら、『銀の匙』の授業を始める前には5%しかいなかった国語好きの生徒が、95%にまで増えました。この結果を見て、『銀の匙』で押し通しても大丈夫だと思いました
熱意は生徒たちにも伝わります
小学校のときの体験があるものですから、国語教師になったときから、生徒の記憶に残る授業をするためには、教科書ではなくて、何か一つの作品を使わなくてはだめだ、という考えがあったのです
私自身のことを言えば、小学3年のとき、受け持ちの先生が薄っぺらな教科書を使わないで、分厚い講談本を読んで聞かせてくれたことが忘れられません。大阪夏の陣や冬の陣の話、そこで活躍した塙団右衛門や三好清海入道などの物語は、いまだにはっきりと記憶に残っています。それが面白くて、楽しくて、国語が好きになった
私は教師をしていたとき、自分の教えていることがどれだけ生徒諸君の興味を喚起し、後々まで記憶に残るか、ということを常に考えていました。それが生徒たちの将来にとって大きな糧となるからです
読書を通じて自分では体験できないことを知ることができるとともに、自分とは違う人間、生き方があるということも見えてくる
人間が生きていく限り、色々なことに直面し、色々なことを考えなければならないでしょう。そうなると、「横道」経験が多ければ多いほど、そうした様々な事態への対応力もより高まるのです
本当のゆとり教育というものは「詰め込み」が重要になってくると思います。もちろん、受験のための詰め込み教育は問題外です。ここでいう詰め込みとは、いわば「教養の詰め込み」のこと。この上積みこそが、受験などという近視眼的な目標ではなく、人生の方々で待ち受ける難問にぶち当ったとき、必ず役に立つわけです
戦後の「ゆとり教育」というものは、私に言わせれば「怠け教育」以外の何ものでもありません
きっちりと労力をかけて学んだことは、どこかで必ず役に立ちます。必要以上に勉強したこと がゆとりにつながる。これが本当の意味での「ゆとり教育」なのです
ときには苦しいけれども読む、書く、そして考える。そうしてみると、そのときは目一杯でも、あとで「心のゆとり」となって、必ずわが身に返ってきます。それが“教養”なのです
答えは後回しでもいい。疑問をもつことが第一歩
偏見を打破するだけの実質さえ備えておくなら、どんなことを言われても笑ってすませられよう
大事なのは答えではなく過程です
私は好きなことをがむしゃらにやってきました。 皆さんも自分がいいと思うやり方を見つけて、それを迷いなくやり遂げていってほしい。自分がこうだと思うものを見つけて進めてほしい。誰かのマネをする必要もないし、逆にいいなと思えばマネをしてもいい。とにかく自分がやりたいことをやる、ということが大切。自分が好きなこと、やりたいことをどんどんやりなさい
私の信条は、『高く、広く、明るく』です。目標を高く、視野を広く、生活は明るく暮らしていきたいと思っています
(今の目標)108歳の茶寿、111歳の皇寿、そして、120歳の大還暦を迎えること
私は台所にも立ちますよ。汚れ物を残したまま寝たことはありません
源氏物語は谷崎潤一郎や与謝野晶子などいろんな人が現代語訳していますが、私は自分が紫式部になったつもりで書きました。現代の紫式部が平安時代に行って当時のことを書いたような視点で訳しています
20年はまだ生きられると思った。それで、源氏物語の現代語訳に取り組んだのです。源氏物語は長編なので現代語訳には時間がかかります。でも、20年生きられるなら、できると思いました
牛乳瓶2本半分もの血があふれていたのですが、破れた血管部分が突然かさぶたで覆われ、血が止まったのです。どうしてそうなったかはわからないのですが、医者も“奇跡だ”と繰り返していました
(健康の秘訣)よく噛んで食べること。胃の負担が少なく、脳も刺激するのでボケない
教師になってすべてがよかった。これ以外の人生は考えられない。教師という職につけたことがありがたいです
教師は人間対人間で、人と交わることに面白さがあると思います。人間は皆、いろんな能力があって、性格などもそれぞれが違い、それぞれに良いところがあります。それを見つけて接触していくのが楽しい
何をどんなふうにしゃべろうかと常に考えている
灘校という自由にやりたいようにやらせてもらえる学校だからこそできたこと
子供たちは、自分で体感し発見したことだから、自然と興味をもち、楽しみながら学んでいきました。遊びの感覚でやるから楽しい。“遊ぶ”と“学ぶ”は同じこと
(使用していた国語の教科書は、軍国主義を理由に3分の2は墨で塗りつぶされて真っ黒だったため)ぺらぺらでこんなものでは授業なんかできないと思いました。それでもなんとか生涯に渡って子供の記憶に残る授業をしたいと考えていました
私は何度も奇跡的に命を救われているんですよ
綴り方の時間にたくさん書けば先生が褒めてくれて三重丸をくれる。それでまた喜んで書いて見せたらまた丸をくれる、といった具合でした。だから、読み書きは自然に好きになっていきましたね
教科書より講談 本のほうがよっぽど面白かった。ただ、聞いているだけではだんだん物足りなくなって、自分でも読みたくなる。そこで、母親に『本、買うて』とねだると、母にしてみれば講談本でも何でも子供が“本”を読んでくれるのが嬉しいものだから、すぐに買ってくれました。塙団右衛門直之なんていう名前も覚えていますよ
“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい
何でもいい 、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから
スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります
「したいことをする」それはとても素晴らしい生き方です。そんな自由な社会であることは喜ぶべきことです。し かし「したいことをする」ことと「やりたい放題やる」ことはまったく違う。「したいこと」の質が問われている。今はそういう時代かもしれません
「これを言ってもいいか。これをしてもいいか。それによって相手はどう感じるだろうか。そういうことを一瞬でもいいから考えなさい」これは私が生徒たちに必ず言ってきた言葉です。この気持を忘れてしまうと、人間はとても傲慢な生き物になり下がってしまう
人生は誰かと比べたり競争したりするものではありません。自分に与えられた大きな波に乗って、したいことをすればいい
幸福観というのは人それぞれです。お金に幸せを感じる人もいれば、世間的な評価こそが幸福と感じる人もいる。それは歩いている道が違うのですから、そこに落ちている幸福の種が違うのも当然のことです。隣の道など気にしないで、自分が歩いている道の中に幸せを探すことです
生徒たちの最終目標は、いい大学に合格することではありません。そんなものは単なる結果に過ぎない。大切なことは、人生を生きていくために必要となる「考える力」を養うことです
今の日本は、横道にそれることが許されない社会かもしれません。与えられた目標に向かってまっしぐらに走る。結果を出すことだけを追いかけている。いかに早く結果にたどり着くか
人に貴賤はないが勉強したかしないかの差は大きい
福沢諭吉
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。
ひとこと忠告したい。後進の青年諸君。もし他人の仕事に不満だったら、自分でその仕事を試みてみたまえ。他人の商売のやり方がまずいと思ったら、自分でその商売をやってみたまえ。隣家の生活がずさんに思えたら、自分の家で試してみたまえ。
顔色や容貌を、いきいきと明るく見せることは、人間としての基本的なモラルである。なぜなら人の顔色は、家の門口のようなものだからである。広く人と交際して、自由に付き合うには、門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。
古典の「古事記」を暗記していても、こんにちの米の値段を知らないのでは、日常生活の知識すらない男というほかない。中国の古典の奥義をきわめても、商売のやり方を知らず、取引ひとつできぬようでは、収支の知識の問屋にすぎない。
かくして、人たるものは、他人の権利の妨げさえしなければ、自由に行動すべきで、他人の利害に関係せぬ以上は、はたからあれこれ口を出されるいわれはない。好きなところへ行き、いたいと思う場所にとどまり、遊ぼうと働こうと、遊ぼうと寝ていようと、それは本人の勝手なのである。
学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。学生は小さな安定に満足してはならない。粗衣、粗食、寒暑に耐え、米をまき、薪を割り、それでも学問はできるのである。
日本人も西洋諸国の人民も、同じ天地の間にあって、同じ太陽、同じ月・海・空気を共にし、互いに通じ合う人情を持つ人民ではないか。余った産物は与え、外国に余っている物産はもらい、教え合い、学び合い、恥じたり自慢したりせず、互いに相手国の便利を考えて、その発展を願うべきであろう。
妊娠中に母を苦しめ、生れて後は三年父母の懐を免れず、その洪恩は如何と言えり
親子だというても、親は親、子は子だ。その子の為に節を屈して子に奉公しなければならぬということはない
一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり
活用なき学問は無学に等しい
自由と我儘(わがまま)との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし
結婚は人生の重大事なれば、配偶の選択は最も慎重ならざるべからず
読書は学問の術であり、学問は事業の術である
人生、万事、小児の戯れ
人は、生まれながらに、貴賤貧富の別なし。ただ、良く学ぶ者は、貴人となり、富人となり、そして、無学なる者は、貧人となり、下人となる
一度、学問に入らば、大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ
今日も生涯の一日なり
自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ
人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である
自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり
人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある。だから、たとえ負けても勝っても、男子は男子なり。勝負をもって人物を評することなかれ
行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず
賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり
未だ試みずして先ず疑うものは勇者ではない
空想はすなわち実行の原案
学問は米をつきながらも出来るものなり
進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む
政治は悪さ加減の選択である
社会共存の道は、人々自ら権利を守り幸福を求むると同時に他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり
最終目標はどこまでも大きくていい。でも目の前に掲げる目標は身の丈に合わないと続かないし、伸びない
坪田信貴
受験こそ教養を得るきっかけになる
明日できることは今日するな。棚からぼたもち。あわてないあわてない、ひと休みひと休み
無用なラベリングをして他人を評価しがちな日本の風土を変えたい
受験だけでなく、人生を成功させねば意味が無い
落ちこぼれる子がいるのは、勉強のやり方がわからなかったり、やる気の出し方を知らないだけ。それを教えてあげるだけで偏差値は確実に伸びていきます
とにかく書けとか、気合いを入れろとか、そんな教え方がまかり通っている。それにはまったく賛同できません
生徒のポジティブな側面をきちんと認める
成長を認めたり、いっしょに喜んでいるだけなのです
本人がワクワクする目標を設定してあげるだけでいい
指導のポイントとしては、責任を果たしていることへの承認や励ましを常に行うっていうのが大事ですよ
やったら確実に今よりも1歩でも前に進める
人間っていくらでも成長するんですよね
絶対無理ということは世の中にひとつもない
子どもたちからも大事なことをたくさん教わった
脳は鍛え方次第。脳の良し悪しで学歴は変わらない
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