升田幸三の名言集
(加藤一二三 九段のことを)この子、凡ならず
升田幸三
ある人は、碁は、しまうときは白黒と二つのゴケに入れるが、将棋は一つの駒箱におさめ、戦い終わると敵も味方もない、といって将棋の美風を讃えた。まったく同感である。将棋は盤上の攻防は峻烈で、勝負そのものはきびしいものであるが、その精神はあくまでも仏心である
天野宗歩の棋譜を見ると、この 人がいかに優れた棋士であり、高い峰であるかが窺える。そして、その棋譜を味わって一番打たれるのは、終局に際して、歩のハシからハシまで、余すことなく参加させて、辛労をともにした駒の全部に勝利の喜びを味わわせようとする配慮が、ヒシヒシと感じられることである
駒をうんともったときは、おくれている。三歳の童子とはちがうのだから、足りないところで精いっぱいの仕事をしなければならない。僕はいつも、足りない、足りないという感じをもちながら、そういうところで仕事をしてしまう
勝負をするときなんでもかんでも、相手に差をつけようとりきむのはよろしくない。勝負の急所は、一手違いで相手を倒すことにある。五手も十手もちがうというのは、どだい自分が勝負すべき相手ではない
いよいよ詰む段階になると、つい二手も三手もひらいて勝ちたくなる。安全をねがうのだが、実は一手ちがいでいいという計算が成り立つほうが安全なのだ。何手もちがわせると、欲がからんで、まちがいがある
一手残せればいいという考えに立つものは、差をつめられてもなかなか くずれない。自分が劣勢のときにも、ねばりにねばって、なんとか一手ちがいにまで追いついておこうとつとめる。そうしておけば、逆転のチャンスがいつもひそんでいるからだ
序盤だけなら、体験がなくても、いわば机上論でも、ある程度はさせる。中盤というのは、そうはいかない。ここは勝敗のわかれ道であり、文字どおりシノギをけずるべきところだ。記憶や、常識や、ごまかしではどうにもならない。その人の持っている力全部が出る場所が中盤である
僕などは、どちらかといえば、中盤 戦が実にみじかい。序盤に、中盤を越えた考え方をする。そして中盤にモタモタしないように持っていこうと考える。中盤を長びかせることがいいとは思っていないからだ
中盤は、人生でいえば中年の難所、その人の人生の結びに見通しをつけるべき局面である。ここでしくじったら、もう取り返しはつかない。出てくる問題も変化が多いし、深い。いちばんその人間の長短がはっきり出るところである
大勝負になれるとか、なれないとか、よくいわれることだが、僕は、これは中盤に処するコツを 覚えたかどうかということだと思っている
あるアメリカのゴルフのプロの勝負観に、「練習の力倆が本番で出ないのは勝負にとらわれすぎるからだ。今日のスコアは一万年も前からきまっているんだと思ってやってみたまえ」という意味のことがあると、人に聞いたことがある。この運命論的な考え方も大切なことだと思う
なんにしても、力倆が評価されるのは、けいこではなくて本番である。本番で力が出ないというのではなんにもならぬ。その人は弱いのである
負けずぎらいは勝負師として、もっとも必要欠くべからざる条件の一つではあるが、ただメチャクチャに、オレは負けるのがいやなんだでは、勝負師としての生命はきわめて短らざるをえない。
負けるのがいやだから、勝負そのものをやりたがらぬということになりがちである
負けずぎらい一本でかかってくるヤツとは、勝負をするのがスコブル楽である。彼は「我」だけだからである。未熟な世界ほど「我」が強くなるのだからおもしろい。アマチュアに天狗が多いのも、その一つのあらわれかもしれぬ
「我」が強いものは、独創的な、いい手を発見することが多い。「我をすてろ」とよくいうが、「我」は勝負のうえでたいへん大切なものである。「我」があり、負けずぎらいがあり、そのうえに道理に目をひらかなくてはいけない
しめあげの局面になると、いよいよますます落ちついてきて、決して勝機を逃さないのがいる。これがほんとうのベテランである。この最後の落ちつきは過去のにがい経験からのみ得られるもので、一朝一夕には得がたい力である
定跡というものを、私は頭から否定しておった。定跡は序盤における模範的な指し方であり、これにしたがっとれば間違いはない。だが、そこには将棋を指すことの感激もなく、進歩もありゃせん。大切なのは創造です。人真似を脱し、新しいものをつくり出すところに進歩が生まれる
定跡というのは、ある程度まで手順を進め、これにて下手よし、としてあるんだが、本当の勝負はそこから先なんですよ。上手もそれなりの用意があるから、一筋縄でいけるもんじゃない。定跡通りにくる人のほうが、上手はやりやすい意味があるんです
あなた(木村義雄十四世名人)が悪いと断定した石田流で、私はあなたに勝って見せる
新手一生
息長く心ゆるやか手ゆるまず
通身是手眼
香一筋名人の上
升田なくてなんの日本の将棋かな
勝負師とは、ゲタをはくまで勝負を投げない者をいうんです
詰め将棋を知らないから強くなれんというものではありませんが、将棋というのは、駒を動かさずに先を読むことが大事ですから、この意味で、詰め将棋はやっとく必要がある
(詰め将棋は)頭の中で将棋をする練習にやるんです、想像性を養うために
碁で私が得たいちばんの大きなことは、弱者の心理です。弱いものはどうしてもあせります。あせるし、局部の利益に非常にとらわれる
弱いものを相手にする場合は、相手にやらせることが大事です。というのも、弱いものは動くたびにヘタをして失点を重ねるように出来ている。だから相手にしゃべらせ、動かさせるわけで、これが、上手のやり方です
私は自己暗示というのは、人生にとって非常にだいじなことだと思ってる
不成功に終わる人というのは、自己に無意識のうちに自信喪失させるような暗示をかけている。おれはもうダメだとか、終わりだとか、始終ボヤいたりして、自分を奈落の底に落ち込ませるような自己暗示をね。逆に伸びる人というのは、いつも自分を向上させるような暗示をかけてますよ
私はもともと、人生というのは、一手違いだと考えているんです。将棋でいう一手の差で、もう勝敗が決まる
将棋というのは、勝負ではあるけれども、やはり娯楽であり、遊びのものです。とすれば、楽しみのあるものにしなければいけない
一時期、ぼくは、神の前に出てもひるまない、そういう将棋を追求した時代があるんだが、突きすすめたものは、そこにきびしさがあり、鋭さがあっても、ならべてみると、なにか楽しいものがあるもんですよ
もともと将棋というのは、落ち着きのなかに勝負のアヤがあるものなんです。落ち着きを失ったものが敗れるようになっておる
人間は、その所作にその人の雰囲気というものが出てくるものです。そしてこれに、力のあるなしが出てくる
仕事に惚れ、事業に惚れ、一道に惚れ、それに徹したやつは、やはりいちずなものが表へ出てくる。惚れただけでなく、成しとげたやつはまたそれに何かが加わる
人生は、将棋に似ている。どちらも“読み”の深い人が勝機をつかむ。“駒づかい”のうまい人 ほど、機縁を活かして大成する。“着眼大局、着手小局”もまた、両者に共通する真理であろう
精読するという概念から、もう一歩突っこんで、不可能を可能にする努力、―将棋を創作し、また、勝負を勝ちきるには、この“えぐる”という修練が必要である