登山家の名言集
「山の日」というと、どうしても北アルプスや南アルプスという高く大きな山を想像させるかもしれません。けれども、私が多くの方々にもっと知ってもらいたいのは、「日本の里山も山、森も山」ということです
田部井淳子
欧米の方は自然の中にいることを楽しむという風潮が強いでしょう。一方、日本人や韓国人もそうかもしれませんが、アジア人は鉢巻して「目指せ頂上」のような面が強いかなと感じます
アジア人は、「群れる」というか団体行動をすることが多いと感じます
日本の教育では体験に基づくことが少ないと不満に感じています
おにぎりを食べて梅の種を捨てていいのかだめなのかとか、小さいことでも実際に考えるのです。トイレの問題も大事ですし、教科書にはないいろいろなことを実体験の中で、ああなるほどと感じてくれる高校生が非常に多いのです。体験に勝るものはないと思っています
地形や植生、たとえば途中で倒木の皮が剥がれているのを見て、これはシカが食べた跡だとか、教科書で見るよりも生々しく分かりますよね
富士山のでき方などを事前に勉強していくわけですが、伏流水という意味が分からなかったけれども、こうやって水が出てくるとか、降った水が30年後に出てくるとか、目の前にして理解できるようになるのです
実際に山に行くと、教科書にはないことがいっぱい出てくるわけですよ
いろいろな高校生がいますが、100名全員を(富士山に)登らせたいと思っています。私の目標は、1000人を登らせることです
多くの会社を回ろうと、計画書をもって私もずいぶん歩きました。しかし、全然相手にされず、女性だけでヒマラヤ登山ができるはずはないとか、90%以上の可能性がなければ社として援助はできないとか、私の年齢などまで質問され、人からお金をもらうとはこのようなことなのだと理解しました
目標とした8000m級の山は、全部で14あります。女性だけでも登れる山を選ぼうと、消去法で考えました。「この山はキャラバンがむずかしい」「この山は壁がある」などなどです。そうして、「エベレストは日本人も登っていたし」「身近に資料もあるし」「経験者もいる」「8000mを超えてからはそんなにむずかしくはない」という理由で決めたのです
Ⅰ峰、Ⅱ峰、Ⅲ峰、Ⅳ峰があって、Ⅰ峰が最も高く8000m級で、私たちが目指したⅢ峰はあまり登られておらず、日本人はもちろんですが、登っていたのはインド隊だけでした。私たちは本当に初めてで心配もありましたが、何とか女性9人で登頂に成功しました
女性だけでヒマラヤに行こうと、女子登攀クラブを結成したのが1969年でした。当時は、組織に属していないと海外の山に登る許可が取れなかったからです。1970年にネパール・ヒマラヤが解禁になることが分かったので、女子登攀クラブとして、まず1970年に7000m級の山、その次に8000m級の山を目標としたわけです
山が好きになり、登り続けてきたことで今のわたしがある
歩けるうちは歩きたい。生きているうちは、1分1秒でも楽しく、やりたいことをやって生き抜けたい
五ツ星(ホテル)より満天星
病気になったことは受け入れるしかない。でもしっかり受け入れたのだから医学的なことは先生にお任せして、ただ体が治療でどんなに辛くても歩かなければ絶対にダメ!という体の声に応えること。それが私にできること
大事なのは平常心。どういう方法で切り抜けられるか、頭で考えることができるのが人間。だからそのときにオタオタしない
私は、ぶつかるぐらいなら逃げちゃう。逃げても自分の意思は通す。そうやって私は切り抜けてきた
一番のストレスは人。人とぶつかることなんですね
標高が上がれば、杉だけじゃなくて、カラマツ、ダケカンバ、ハイマツなどいろいろな木々が顔を出します。ロープウェイの駅を降りると、風は急に涼しくなり、お花畑や高山植物があたりを覆い、都会ではけっして味わえない非日常の世界が待っています
ロープウェイを使って木曽駒ヶ岳などに行くと、もう歓声の上がり方がまるで違うんですよ。『ワーッすごい!』『私たちでもこんなところに来ていいんだ!』とほんとうに感激してくれます
若い頃の私は、歩いて登るからこそ山には価値があるんだと思っていました。故郷・福島の吾妻小富士にしても、昔は一日かけて麓から登るのが当たり前だったから、磐梯吾妻スカイラインという道路ができたときも反発する気持ちがあったんです
登山と言っても、8000メートル級の山の場合、たとえば“毎日1000メートルずつ登っていって、8日目に登頂”というようなものではないんですね
私が山頂に立ったことは事実ですけれど、それを成し遂げたのはチーム全員の力なんだという思いがあります
人間に必要なものは「自然と読書」 楽しむものは「自然を食」 大事なものは「出会い」です
どんな山も一歩一歩
富士山は独立峰ですので、ご来光は8合目・9合目・頂上で見ても同じです!
しゃべると酸素が入ってくるんです。『いい眺めだね』と言いながら行った方がいいかもしれません
富士登山はゆっくりと。息が上がるようではいけません。同行者と会話が楽しめるペースがいいでしょう
(高山病になったら)リンパの集まる鼠蹊部をコブシ(親指の節)で軽く叩く。200回叩くと、だんだん下半身が温まってきて血流がよくなるんです
(高山病になったら)靴を脱いで、足指をほぐす
(高山病になったら)耳の下にリンパがあって痛いですけど、グーッと押しながら後ろの首筋に流すと肩の凝り、頭痛、目の疲れが治ってきます
(高山病になったら)ザックを下ろし、手を伸ばして深呼吸!ザックを背負うと胸が狭くなり酸素が入りにくいのでザックをおろして深呼吸を。大きく息を吐きながら登ると、その後、肺に酸素が入ります
(富士山5合目で)ウロウロするのが大事な んです。すぐ歩き出さない、ということ。十分、水分を取ることも大事
(富士山を安全に楽しく登る方法)お昼までに5合目到着/お昼過ぎに8合目を目指すスケジュールだと、混雑も少ないためオススメ
(富士山を安全に楽しく登る方法)高山病の症状は一般的に2500m前後から表れます。車で5合目入りし、すぐ登る ことは避け5合目到着後、1~2時間以上“高さ”に慣らしましょう
雄大な自然の中にいるほうがストレスを感じません。家の目の前は山と川、雑木林の中を歩くのが遊び場という環境で育ちましたから・・・
人生は楽しいもの。決して人を責めず、時間を上手に使い、一つずつ扉をあけていきましょう
一歩 一歩 前へ
すべての基本は平常心。そして、選択の幅を広く持っているほど、難局でも明るく、前向きに受け入れられるのだと思います
二本の足でこれだけ長く歩くことができるのは、人間だけなんです。せっかく与えられた力なのですから、使わなくてはもったいない
人生は8合目からがおもしろい
急いで生きて大切なものを見落とすより、ゆっくりと眺めながら歩く方がいい
三浦雄一郎
頂上に大いなる幸福があるわけではない
命を惜しむと、それまでの努力が無になってしまう
ああ、ここ(エベレスト)、滑れそうだな
お陰で僕はエベレストからのパラシュート直滑降に成功し、映像はオスカーをもらうことができました。アメリカ前大統領のジミー・カーターさんは、僕の映像を20回以上観てくれたそうで「人間の勇気、夢をあきらめない姿に感動した」と 言ってもらえて、そんな嬉しいことも起こるんです
目標どおり70歳で初の登頂成功。しかし天候に恵まれず、頂上からはほとんど何も見えなかった。「次はこの頂から晴れ渡った景色が見てやろう」と、5年後にもう一度挑戦することを決めたのです
資金集めは飛び込みですよ。ホンダの本田宗一郎さん、松下幸之助さん、サントリーの佐治敬三さんなどの元へ飛び込んではプレゼンテーションをしました
目標がはっきりしないと、ただの怠け者になってしまう
どうせ死ぬならエベレストに行ってから死のうかと、病気のお陰で目標が出来ちゃった
僕は限界に挑戦することで「人類のフロントランナーでありたい」と思い続けてきました。今もその意識は変わりません。しかし、その根っこにあるのは、誰もやったことのないことをやってみたい、周囲を驚かせたいという、純粋に僕自身が楽しんでいる気持ちです
リーダーというのは“旗印を降ろさないこと”といいますか、目標設定したことを最後まであきらめないことでしょうね。あとは少しバカなくらい陽気でいないと(笑)
父のリハビリの様子を見ていた僕は、「人間いくつになっても夢をあきらめなければ成し遂げられるんだ」と実感しました。「自分も人生このまま終わってなるものか」と再び情熱が沸き起こりました
あそこを登って、もう一度来なきゃいかんな
電車の窓から白い富士山が見えましてね。本当に美しいなと思いました。そこに“一枚の斜面”が見えるじゃないですか。『ああ、あそこを真っすぐ降りたら楽しいだろうな』と
体が太った原因は運動不足と食べ過ぎ、飲み過ぎでしたが、実は目標や夢を見失ってしまったことで、心までメタボになっていたんですね
僕のプレゼンテーションの原点は学生時代にあります。当時もスキーをするお金が必要だ ったから、スキー部の仲間達とダンスパーティーやスキーメーカー協力のバーゲンセールなどの企画を立て、いろいろな人に「この企画はこう役立ちます」と交渉していたんです
エベレストには、スポンサーのお金を使って大勢の人を巻き込んで挑むのですから、成功することがスポンサーへの当然のお返しだと思っています
「人生、このままたそがれてちゃいけない」と一念発起し、本気でエベレストを目指して始めたのは6年前のことです
これが出来たら死んでもいいと思っていますから。死んでもいいというのは自分の限界を知りたいということなんです。そういう執念や勇気みたいなものを持てるか持てないかが、人の実行力に差をつけるのではないでしょうか
後から来た人たちに追い抜かれても、全く気にしない。標準タイムがあるのですが、それも僕には関係ない。ところが不思議なもので、頂上に近づくと追い抜いて行った 人たちに追いつき、山頂には僕らが先に着くことも少なくありません
植村直己が『冒険とは生きて帰ることだ』と言いましたが、これは『死を覚悟して』という言葉がカッコ付きで入っているのです
まぁ、全部人間のやっていることなんていうのはね、“先人の肩”といいますか、ここに乗っかって、次はこっちに乗っかって…という繋がりだと思いますねぇ。全くゼロからの創造なんていうのはね、人類が初めてこの世に一歩を踏み出した時ぐらいじゃないですかね(笑)
20歳の人が8000m級の山に行くと90歳の身体能力に落ちてしまうんですが、僕は80歳だからプラスして150歳くらいに加齢されるんじゃないでしょうか。人間の生存不可能な次元に入っていかざるを得ないのですが、それをどう超えるかという好奇心に突き動かされています
幼少の頃、僕は体がとても弱くて学校を休みがちでした。もし体が丈夫で100mを素晴らしいタイムで走れたら、違ったことをやっていたかもしれない。でも身体的に恵まれていなかったからこそ、誰もやっていない細かな隙間を見つけて突き詰めることができたんです
旗印を降ろさない
恐怖心があるからこそ、しっかりと準備もするし、用心もする。そう考えれば、恐怖心は決してネガティブなものではありません。自然に対して恐れを抱くことは、冒険をする上ではとても大切なことなのです
まだ世界中のだれも挑戦していない80歳でのエベレスト登頂。この俺に本当にできるんだろうか? いや、きっとできるはずだ。そんなふうに自分で自分にワクワクするんです
90代の親父に夢と情熱があるなら、60代の俺にだってまだまだ何かできるんじゃないか――。そう奮い立ったのです
気づけば「メタボな65歳」になっていた僕の心に、もう一度火をつけるきっかけを作ってくれたのは、父でした。スキーが大好きだった父は当時、「5年後の白寿(99歳)でフランスのモンブランを滑る」という目標を立て、日々鍛錬を積んでいたのです
65歳のおじいちゃんがエベレストというと気が遠くなりますが、ちゃんと計画を立てれば出来るものなんです。まずは、富士山、次はヒマラヤ。5000m級、6000m級、7000m級とやっていけばいいんです
アップル の創設者であるスティーブ・ジョブズ氏が、若い人に「ハングリーであれ、愚かであれ」と講演していましたが、その通りだと思います。僕自身も非常にハングリーだったし、周りから「馬鹿」「あいつ何やってんだ?」と言われましたけど、それを恐れちゃダメ
エベレスト登頂を前にして、私の体力が、30代後半の水準まで戻ったのは、父親に負けてはいられないという思いが、それだけ強かったからかもしれません
これからも「次はどんなことをしてみんなをビックリさせようかな」という、ちょっぴり「いじわるじいさん」気分で(笑)、自分も周りもドキドキ、ワクワクするような冒険に挑んでいきたい。それが、僕の終わらない夢です
「夢いつまでも」の人生をたどっていきたいと思って
愚かと言われるくらい人の理解を超えた新しい分野に挑戦することが必要です。それを成し遂げてはじめて、新しい時代、ある いは自分自身がひらけるのですから
一歩間違えば命を落とす賭けをしているんだから徹底してハングリーでなくちゃいけない
1970年にはエベレスト山頂からのパラシュート直滑降に挑戦したのですが、当時の日本人にとってエベレストは未踏の地。誰も知らないエベレストで初の試みをするのだから、しっかり映像を残そうと「どうせなら将来、ハリウッドの映画祭でオスカーをもらえるような映像に」と計画しました
パラシュートを使って富士山を直滑降したのですが、「スキーとパラシュートを結びつけた」という斬新さが世界中のニュースになりましたよ。立て続けに新しいことに挑戦して記録をつくれたのは、自分でなければできない「オンリーワンの何か」を追い求めた好奇心の賜物でした
(2度のエベレスト登頂を果たした時)涙がでるほど、辛くて、厳しくて、嬉しい
自分が「やりたい」だけでなく、やる目的や社会的意義をきっちり落とし込み、相手企業が求めていることを広報宣伝できるよう組み立て、スポンサーになってもらうことができたんです
バカ言って笑いとって、『こいつ本当にバカなんじゃないか? でもやってやるか』くらいがちょうどいい
最後の最後まであきらめずに、 人類の新しい分野のフロントランナーとして挑むことが僕の生きる原動力になっています
今度はスキーヤーとして、ヒマラヤの8000メートル峰から滑ってみたい
仕事でも日々の生活の中でも、冒険することはできる。そう考えると、今見えている光景がきっともっと輝いて見えてくるはずです
順天堂大学の白澤卓二先生に長寿の遺伝子、スーパーアスリート的な遺伝子、それから冒険の遺伝子という要素で、親子3代を調べていただいたんです。ところが、それらは一切なくて、まったく日本人の平均値だと
5年前は、500m登るのもフーフー言って、途中で戻って来たりしていました。65才だし、もういいかなと思っていた
できない理由より、できる理由を考える
世界最高の気持ちです。まさか80歳でエベレストの頂上にたどり着くとは
冒険心があったからこそ、山を越え、海を渡り、人類は地球上で生き残ってきた
世界6位の高峰ヒマラヤのチョーオユー(8201㍍)の頂上からスキーを滑りたい
もうたくさんだよ、疲労困憊(こんぱい)
70歳や80歳であきらめる人が多すぎる。80歳がスタートだと思えば、人生がおもしろくなるんじゃないか
人生、このままたそがれちゃいけない
山には相性がある。山に呼ばれなければ、なかなか行けない。エベレストの女神に3回呼ばれて、とうとう3度目の登頂になった
やっと生きて帰ってこられたという感じだ、(カトマンズは)酸素が濃いな。ほっとしているとしか言いようがない
(下山は)登りより、はるかに危なかった。一歩間違えたら死んじゃうので。生涯でこれほど疲れたことはない
おかげさまで登れた。頂上は素晴らしい快晴、こんなすごいことはなかった
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