歌舞伎役者の名言集
遠くを見ない。明日だけを見る
坂東玉三郎
桜姫って、ただのお姫さまとは全然違いますから。いろんな女の人の性格や運命を一人の女にこめたようなところがあります
きれいに立ち直るというのはすごく力がいる。醜く落ちていったものを次の幕でもう一度きれいに再生するのは 、すごくたいへんです、精神的にも、肉体的にも
最初、役慣れしない頃は低い声、いわゆる男らしい声を出さねばという意識がありましたが、慣れると声の高い低いじゃなくて雰囲気なんだなとわかったので、後半ではお岩が低い調子、小平が高い調子。小平は女っぽくならない程度に張りました
むずかしかったのは凄みを出すというところです。「凄み」と「がんばる」というのは違う。「ふけてはいけない」というのと「軽くなる」のは違う。「病気のけだるさ」と「恨みの辛さ」も違う。結局、ぼくはまだ若いですから声を安易 に使うと軽くなる。それがむずかしいのです
お岩は父親の敵を打ってもらいたさに伊右衛門といるけれど、子供まで生んだのに針の筵の毎日でいる。父を殺した伊右衛門と知らずに暮らしていることが因果なんでしょうね。「浪宅」は本当によくできている場面ですね
お岩という人は、初めて舞台に出てきた時は若くて美しい女だけれど、すでに生活に むしばまれている。原作、初演の台本では夜鷹のなりで出るんですね。でも、なぜ夜鷹なのかと考えると頭がぐらつくんですね(笑)。ですから、ぼくは夜 鷹の糸立(粗末な筵のこ と)を持たずに出ました。ひとことふたこと説明したところで お岩が夜鷹であったと、見ている方にはわからないでしょうから。もしそうするならば、それなりの台本を作らなければなりませんし
見る側のために伝承がある、けっして演る側の楽しみじゃなく、いかに内容をはっきりわからせ、奥深く見せるかのための伝承を大切にしていきたいと思いました
『四谷怪談』というのは本当によいお芝居で、5時間で演じ切れない部分のどこを割愛していけばいいか、というと、本当からいえば割愛していいところなんかないわけです。ですが、今回は言ってみれば、裏表、裏表ときれいな部分と醜さが反転してゆくという演出家の趣向なんです
型に関してものを言う場合は、自分が3回ぐらい再演して自分なりに消化したうえで、「この型というのはこれこれこうだから、全体のバランスを考えるとこうしないと展開しないんじゃないか」とか初めて言えるんですね。初役の場合は、役の大根の意味を掴むことです
どういう型があり、先輩の役者の方々がどういう演技方法を残されたか、ということを考える。これはどの俳優さんでもなさっていると思います。そして 、その読み方によって解釈が違い、選ぶ型が違ってくるんですね
どういう役柄にしたらいいかということも大切ですが、歌舞伎の場合はやっぱり伝承とか型も大事です。伝承や型を考えてみて、脚本を読んで全体の意味を知りその中で自分の役が何を表現したらよいのかを掴まなくてはならないんです
ぼくね、子供のころ眠る前に(鼻を)3回引っぱれっていわれて(笑)
杉村先生ぐらいになっちゃうと、ある意味の女形と同じだと思うの。ただ、過去に生の女の人だったということ(笑)。ごめんなさい(笑)。先生みたいに、そういうのを一回越えちゃっているというのを(笑)舞台で観てすばらしいと思うんですよ
ふだん何していますかと聞かれるでしょう。芝居を観たりします、というと、勉強家ですねといわれるけど、そうじゃないのね。楽しいの。観てるときって。やってるときよりいいときがあるし(笑)
ぼくは今、自分が詩とか文学、あるいは絵や彫刻など、ある意味で自分だけの孤独な作業で自分を表現しているのならば信じられると思うんです。でも現実に、今皆さんの前で踊ったり、芝居をしたりしているなんて信じられない。実感がない。こんなことを言うと、信じてくれないかもしれないけれど、本当なんです
自分に協調性がないから、普通に暮らしていけるかどうかという意識があって、自分に劣等感があったわけでしょう。兄たちも、母に「こんなに甘やかして育てちゃったら、とんでもないよ」なんて言う。そういうのを聞いて育ったものだから、自分が絶対に駄目な人間だと思っていた。
公には言いませんけど、個人的に、友達とするんですね、「自慢させてね」と前置きして言って、合槌を打ってもらうんです。実際、自分で良いと錯覚するくらい、うまい合槌を打ってくれる人がいい(笑)。「ふんふん」じゃなくて、「ほんとにねえ」と言って欲しい(笑)
自分の作品とか批評、写真に対して割と客観的なんですね。だからすごくさめているんですけど、時には自慢ぐらいしなくては生きていかれない(笑)と、自分でほめたりしてるんです
やっていることが私なんです、とお答えするのが一番確実なのかもしれない。それで、そのときどき偶然に見えるものが事実だと思うんですね。だから、昨日言ったことが本当か、今日言ったことが本当か、じゃなくて、どちらも本当なんです
本当の核心は無意識の中にあるというか、言葉にするとゆがみが出ると思います。だから、ある意味では、話をするのがめんどうくさい、というところがあるようです
皆さんがおっしゃるほど、自分の舞台上の姿が自覚の中にないんです。ですから、聞かれるたびに答えていても、それは意識的に作った答え、演じていく過程、役を教わった過程での方法論の言葉が自分の中にあって、その言葉で答えていくだけなんです
父の時代は、自分の父親に習える役でも他人に習いに行けと言われたらしいですね。うちの父も自分の父親から習ったものはほとんどないと言っていました
テレビで商社マンの教育をマンツーマンでやるのを見たことがありますけど、ああいう感じです。もう今はやりたくない(笑)と思います。こう言われたらこう言う、ああならば、ああするとか、きっちり教えてくれるんです
三食小言付と言っていたんです(笑)。朝から晩までずっとです
とにかく女形は立役に添わなくてはいけないと教わりました。たとえば、立役が小道具を落としてしまったら、次に使い易い所に芝居の中でちゃんと置き直すとか、立役に寄り添う時にはどうしたらいいかとか、そんなふうに演られると相手が困るとか
稽古だといって出かけては、内緒で映画や外国からきた公演とかを見に行ったりしてたんですね。それまで父が厳しくてぎゅうぎゅうやられてましたから(笑)
演りたいものが歌舞伎以外の世界にも広がっていって、いろいろなものをさせていただくようになったんです
教えてくださる時に、「私は女優としてこう演っているけれど、先輩の女形さんたちはこうとこうとこれがあるから好きなのを選んでどうともなさい」とおっしゃる。「喜多村先生はこうなさった、花柳先生はこうなさった」とおっしゃってね、「あなたのくふうでなさいよ」と言いながら教えるときはきちんと教えてくださいました
初めは良重さんのお母さま。大先生でしたけれど、ぼくは共演するようになってからは他人というイメージがあまりなくて……。新派の女形の芸を女優の芸に翻訳なさった方で、素晴らしい方です
『熊谷陣屋』なんですけれど、相模の入りから通して演ったんです。あの暑い夏の京都で。それまであんまり忙しかったこともあって、ぼく、ノイローゼ気味になりました
共演は初めてでしたけれど、その前にすでに『お染の七役』を教えていただきました。あの『お染の七役』は早変わりで七役を演じるもので、長いこと上演されなかったのですが、昭和の初めに国太郎さんが復活なさったのですって
芸の力でいいお三輪はこれからも出来るかもしれないけれど、その時のお三輪の花は今日一日で終わる、ということじゃないかと思っています。思いがけずほめていただいて励みになりました
若草座というのは父が若い頃やっていた会で、それを復活したわけです。青年歌舞伎祭というものがありまして、△△会とか、会を作って参加する催しだった。若草座は2回もしていないんじゃないかな
ぼくは日記を書くことができないんですけど、その代わりに14、5歳の頃から見た芝居や映画のプログラムがとってあって、それをみるとその芝居や映画を見た時に考えていたことを思い出すんです。プログラムを見ると、この頃は何を考えていたんだとわかる。だから、見た物と自分が舞台に立った時のことが思い出になっているんですね。そんなふうで、あまり記憶の整理ができないんです
協調性ゼロといったほうがいいかもしれない。だから学校で困りました、協調性がないってことで(笑)
学校では体育はやらない、運動会には出ない、遠足は行かない、旅行は行かない、でしょう。ほとんど団体行動をしたことがないんです。学校にも悪いことをしましたね。だから、他人と大勢で何かするというのが苦手ですね
この子は無事に暮らしていけばいい、という気持ちで育てていたので、何か欲しいと言えば買ってくる、あそこへ行きたいと言えば連れて行く
大塚って昔の下町の面影があっていいでしょう。よく六義園なんかも歩いて遊びに行きました
両親が芸事を好きだった。映画へもよく連れて行ってくれました
14歳で父(故守田勘弥)の芸養子になってこの家に入るまでは通っていました
6歳の時に踊りを始めて、弟子入りして、7歳になって本舞台がありました。子供だからなすがまま、というか、おだてられるがまま(笑)。「よく踊れた」とかほめられると、子供だからつい踊っちゃう(笑)
両親は、とにかくぼくが無事に暮らしていけばそれだけでいいと思っていたし、ぼくも無事にしていればいいんだなと考えていたので、何かひとつの仕事をしよう、ということは本当に考えなかったです
雷も恐くて、雷が鳴ると家の中は恐いから外へ出たいという。外に出ると鳴っているので家へ入るという。雷の鳴っている間中、それをやっていたらしいです(笑)
ぼくは小さい頃、夜泣きソバ屋さんのチャルメラが恐かったんです(笑)。それで、チャルメラが聞こえると泣くわけです。寝つきの悪い子だったらしいんですよ。それが寝ついた時にくると、起きて泣くので、もう、親がチップをあげて、「この辺にくるな」って頼んだそうです(笑)
脚が疲れて、それが上にのぼってきて、肩が凝ったり頭痛がしたりするんですね。弱いほうの脚というより、それをかばうほうの脚が疲れますね。でも、本当になんという職業を選んじゃったんだろうと思う時がありますよ
克服するというより、なんで不自由のある人間が舞台に立つようなところへいっちゃったのか、と思ったくらい(笑)
父親がネコっかわいがりにして、どうしても病院に入っていなければならない病気の感染期間が過ぎると、うちで治療するからといって、治療器具を買って、病院から出しちゃったんです。とにかくそんなふうで……
5人兄弟の一番下で全部生きていれば7人兄弟ですけど、ぼくのすぐ上の兄と、もう一人の兄が死んでいるんです。それで、兄たちとだいぶ年が離れていて、両親が40をすぎてからの子供だから、本当にネコっかわいがりだった
わがままだし、さびしがりやだし、気はきついし(笑)、大人みたいなことを言うし……、何でも思うとおりにやる、そんな子でした
台詞がとんだり、いわゆる「ろれる」というか
すごくあがりますよ。震えがきちゃう、もう。『メディア』の初日の時なんか、前で見てらして、あがってると思いませんでしたか。舞台稽古の時はそれほどでもないんですけれど、お客さんが入ると、もう……
翻訳劇の時なんか、スカーフしたりスカートはいたりして、なるべく照れないように苦心してます
ちっともうまくないから、人前ではあまり……。それに、すごく照れ屋なんです。ただ、一回照れずに人前で何かできると思ったら何時間でもやってる。芝居でも、幕が開くまでは照れている。幕が開いてしまって、演劇としてやっていいというエクスキューズから演れるんですね
家の人には聴かせますけど。子供の頃からそうなんですね、身内には「もういい」っていうまで、やってみせるんです(笑)。『悲愴』の第二楽章もやさしいから、よく弾きます。歌うのも大好きです
バイエルを終わってすぐに、『月光』をやったんです、ベートーヴェンの『月光』。めちゃくちゃというか、冒涜というか(笑)、楽しみでやってますから、そこらへんの腕で止まっているんですけど
10歳ぐらいの時からピアノはひとりで弾いていましたけど、教則本は全然やらなかったんですね。それで14歳で玉三郎を襲名して、お稽古事が始まって、そのひとつの課目にピアノが入っていたんです。けれど、その時もバイエルも終わらないうちに忙しくなってしまって、きちんとはできなかった
世の中の大勢と脚並みを揃えられない場合には、世の中じゃないものになるしかないじゃないですか。自分が違うものになって自由なところに脚をおろす
美の基本はやはり丁寧でなければなりません。私は、力技で他人と対さないということが、日本人ならではのやわらかさだと思います。他人への気遣いであり、優しさであり、また所作が丁寧であることもやわらかさに繋がるのだと思います
遠くを見すぎると、足下がおろそかになるのかもしれません 明日に向かって前進することが大事なのでしょう
進歩するには背伸びも必要でしょうね。ちょっとずつ背伸びして、その時の自分よりも装って発言したり行動する。そして次にその背延びが嘘でないように努力するわけです。
昆劇を演じるという形で中国を親しく知るとは思わなかったが、自分の体を通じて中国に入れたことが幸せだった。これを機会に深い中国の思想、文学、芸術を知りたい。これからもすばらしい時間が過ごせる劇場空間をつくっていきたい
日本の芸能というものは付け加えられてはいますけれど、非常に削ぎ落とされた端正なもの。日本ほど口伝で歌舞伎なり能なり、人間同士が引き継いできたというのは、珍しい国かもしれません
伝統芸能であろうとも近代のものであろうとも、お客さまが〝生きていて良かった〟という時間を過ごしてもらうという事が意味だと思います。そういうものを舞台でお見せする事が私達の使命だと思っています
伝統芸能を引き継ぐ意味というのがここで答えられるのであれば、追求する必要も無いですよね。引き継ぐ意味というのは、言葉では表せません
型破りな演技は、型を知らずにはできない 型を知らずにやるのは、型なしというのだ
気楽にいけばいいんじゃない?
さよなら公演で、力を使い果たしたんです(笑)。大きな節目ということで、ちゃんとしたものをお見せしなければならないという気持ちがあり、没頭しましたから。しばらくは、芝居から離れて、客観的になりたいなと。一方で、これからは、“若い”“きれい”ではない、新しい役に取り組んでいきたいという思いもあります。でも、次のステップに行くためには、続けながらだとわからないし、一度、自分を緩めてやりたかった
会うことも会話もできない中で伝わるものが、魂なのではないか
坂東玉三 郎
三つの作品を通して私が理解したことは、ある一定の場所に籠もって修行することの大切さでした。テクノロジーに囲まれている今の都会を離れて自分と向き合い、純粋性を保ちながら、人間として、そして芸能者として真っ当に生きることを此処で望むのです
所作だけを最小限やるような稽古と、没入して振り切れてしまったような稽古を両方やっておいて、その中間のところにさっと降りて、本番の舞台をやるのです
遠くは見ない。明日だけを見る
自分は成功を獲得するために舞台に上がるのではなく、舞台上の鮮やかな衣裳やイメージが好きなわけでもなく、なぜ舞台に上がるのかと言うと、観客の皆さんの前で演じる時の自我を忘れる感覚を求めてのことなのです。もし常に自分が出て来るなら駄目です